2019年9月24日 (火)

疲れました

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土曜日から女房、娘、孫が来ていて先ほど一時間半、往復3時間かけて特急の止まる駅まで送って戻ったところです。一人暮らしが慣れてしまった身には疲れます。それからゴミが出ます。ペットボトル、瓶ゴミ、スーパーのトレイ…etc.一人暮らしではなるべくゴミを出さないように生活しているのでこれにも少々疲れます。これからまたしばらく一人暮らしとなりますので静かな暮らしに戻ります。わたしは出来る限りわたしのあるじと共に居たいのです。

2019年9月20日 (金)

四住期

今日人が訪ねて来て「四住期」の話になった。私は今「林住期」を生きている訳ですが、そもそも今の世に四住期などと言う発想があるんだろうか?私は幼くして人生の無常を知り50歳代半ばでこの山里で四住期のうちの林住期の生活を始めました。私にとってこの林住期に求めるのはピラトの言う「真理とは何か」の真理です。圧倒的に多くの人が真面目に真理などと言うことは考えないし、真理などと言えば笑われる時代(ピラトに笑われたイエスのように)、でも求め求めて渇く人も世に僅かにはいる。この山里で、一人暮らし、農業と、渓流釣り、そして聖書、仏教関連書を読みふけり自分を見つめて暮らす日々、禅の教科書に「10牛図」と言うのがあります。その十牛図の一枚一枚を生きてきた私、さしずめ今は牛を見つけ牛に乗って家に向かう道に入ったところでしょうか?牛を追いかける道に迷いこんだ私、でもこの道を行くしかない。願わくばやがて遊行期に入り一升徳利を抱え貧しげな姿で世を徘徊したい。もしこれが出来るなら、世にたとえ僅かでも尽くす事が出来るかと。十牛図で言えば真っ白な何もない絵にたどり着きそして10枚目のただ丸い「円」の世界に行けたらと思います。この世にある間は完全な円には辿りつけないかとは思いますが、この世を去る時にはそうありたいと思い、この林住期を生きています。今日、徒然なるままに…。

2019年9月19日 (木)

渓流釣り

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今年の渓流釣りシーズンもあと10日ほどになりました。名残惜しいです。

昔、テレビで最後から2番目の恋などと言う番組がありましたが、最後から2番目の渓流釣りに行って来ました。お世話になった川を毎週一本づつ訪ねて挨拶の釣りをしています。今日は家から20分ほどの川で先日久しぶりの尺イワナが上がった所です。もちろんそこにまた尺がいる訳ではありません。

それでもお陰様でまずまずの成果で週末に孫が来ると行っているので孫に初めてのイワナを食べさせてあげられそうです。こうしてイワナを育ててくれ、今日、こうして恵みとして与えてくれた神に感謝します。やっぱり渓流釣りはいいです。綺麗な水、緑の木々、清流の水音、その中で一人、釣り糸を垂れる。最高です!

2019年9月17日 (火)

カボチャの花

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カボチャもそろそろ終わりです。

これらの花は咲いても大きく実を結ぶことはないでしょう。それでも黙ってただ咲いています。咲いている「今」だけを見ているのでしょうか?

人間も「今」だけに生きていれば悩みも苦しみもなく、喜びもなく永遠を生きることになるのだろうか?

秋だねエ〜

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コスモスの花が咲きました。秋です。この山里の秋は早く空の色も空気も秋めいてきました。

note薄紅の秋桜が秋の日の陽だまりに何気なく咲いてます

そんな歌詞が知らずと浮かんできます。

「神のなさることは みなその時にかなって 美しい」コヘレト3章

2019年9月16日 (月)

趣味(6)農業

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農業は趣味と言うより生活の糧であり修行です。お寺でも修道院でも自分たちが食べる野菜はみんなで農作業し調達するとか。作務と言うのですかね。また道元は全ての立ち振る舞い、座禅するのも、作務も、顔を洗うのも、風呂に入るのも…etc.全て修行だと言います。私もただ黙々と汗水垂らし働くこと、目の前の「今」に無心に集中する事、それはヘッセの言うように「瞑想」だと思いますし、道元の言う修行だと思っています。それで出来るだけ人力で行うこと、効率とかは考えない、刈った草も全部干して集め堆肥に積み、翌々年の堆肥にします。したがって一昔前の農業スタイルです。そして神様が成長させてくれるのを感謝しながら待ちます。ダメになってもそれが御心と理解しています。でも雨を降らせ、太陽を登らせ私を養ってくださいます。猿の被害も神が育てられたものを神様が猿にも分け与えたと理解すれば諦めもつきます。(まだここには私のものだと言う匂いがしますが)まあいずれにしても自給自足のベースになるのが農業です。これも基本一人で出来ます。これに渓流釣りの魚を恵まれればもうご馳走です。

それに山里の一人暮らし、本を読んだり絵を描いたりだけでは暇であり暇つぶしにも一役買ってくれます。ありがたいことです。このように全てのことを自分の力、努力とかと考えず、全てのことはもっと大きな全宇宙を経綸する方の御心によってなっている。と考え、自分はへり下りその方への感謝で暮らすことは農業から教えてもらうことが多く,何よりの学びです。こんなことが私の農業です。何よりも何よりも頭を下げて感謝をして生きることです。「実るほどに こうべを垂れる稲穂かな」です

これで一通りの趣味の紹介を終わります。少し私の生活も、この山奥に住む理由も分かっていただけたでしょうか?(写真は刈った草を集めた所です。この後一週間くらい干してそれから一箇所に集めて堆肥に積みます。)

趣味(5)渓流釣り

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渓流釣りにハマったのはこの山里に住むようになってからです。釣りは小さい頃から近所のお兄さんに連れられて川に行き、モロコ、ふな、などを釣っていました。後にルアーを覚えブラックバスなど釣りに行きましたがそれほどにはハマりませんでした。こちらに住み始めて、ある人にこの辺に住んでいるなら渓流釣りをやれよ!と言われ、その気になって道具を揃えました。渓流釣りの道具は勿論ピンキリでしょうがそれほど高いものではありません。しかも一度揃えてしまえばランニングコストはテグス、重り、針等で安いものです。あと鑑札を買いますがそれも一回ゴルフに行ったと思えばお釣りがきます。年券を買うので行けば行くほど一回あたりのコストは下がります。私は20回程は行くので一回あたりは数百円です。そうそう、今までやっていたゴルフもこちらに来てやめたので年間2〜30回行っていましたからだいぶお釣りがきます。(最もゴルフやめて浮いたお金はユニセフ、ワールドビジョンに寄付していますが…)加えて何と言っても立地です。一番近い川は歩いて数分ですがこちらは地元すぎてあまり行きません。車で30分見れば5〜6本の川に行けます。それと基本一人で出来ます。総合すると今までの趣味がみんなここに繋がっている事もあります。一人=単独行、山奥の源流域=山、自然、川の流れの音の中、ただ釣り糸を垂れる=絵、音楽の世界等々です。それで一度勧めてくれた人と一緒に行き手ほどきを受け、以後はすっかりハマり単独行です。それに出来るだけ自給自足を目指す生活には貴重なタンパク源です。勿論釣れる時もあるし釣れない時もあります。が、全ては御心のままにです。それに一人で食べるのですからたくさん釣る必要もありません。最初は釣れれば嬉しくてどんどん釣っていましたが、自分の享楽の為に多くの命を殺めてはいけません。今はせいぜい2〜3匹釣ったら止めることにしています。それが2日分の夕飯のおかずです。神様が育てられた渓流魚をこうしていただける恵みに感謝します。

その渓流釣りも9月30日で終了、禁漁期間に入ります。納竿日はガスボンベに食料、コーヒーなど持って行って川で感謝を捧げ昼食を取ろうと思ってます。こんな所にも山の装備、経験が生きてきます。全てに感謝します。

2019年9月15日 (日)

趣味全てはどこに?ーー番外編、そして核心へ!ーその2

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人は皆罪びととしてこの世にやってくる。赤ちゃんは確かに可愛い。しかし冷たい見方をするすれば自分の欲求だけを通す、主張する。お腹が空けば泣く、気分悪ければ泣く、親がそれに応える。そして食事が取れるようになる。自分の好きなものはもっと、と言い、嫌いなものは拒否する。そうやってこの世を生きていくすべを身につけていくのだが基本的に自分中心である。学校へ行き社会人になって行く過程でいわゆる社会の常識などを身につけ、人に優しくとか、人に譲るなども少しづつ覚えるが根っこにあるのは自分中心の生活心である。それは多分いつの時代であれ、この俗世間に暮らす人の普通の感覚だと思います。お金も程々に稼ぎ旅行にも行く、美味しいものを食べる、綺麗な服を着る、仲間と一杯やる、趣味に楽しい時間を過ごす。そして私は程々に幸せだと思う。だけど何か心に空虚なものを感じる。「本当の幸せ」って何だろう?と漠然と思っても追及はしない。

そのような中で私は聖書に出会います。自力の道を自分なりに求めてみて挫折して他力の道に方向転換、そこで聖書に、キリストに向かいます。イエスは言われる「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と。思うに宗教は多くの場合「逆説的」であると。例えばこの世的には、お金持ち、財産豊富、名声ある、地位がある、等々が幸せと。しかし聖書は「貧しい人々は、幸いである」と言う。道元も「貧なるが道に近し」と言う。この世では自分の希望、望むものが適って幸せだと思う。何より自分の命が大事だと思う。しかし聖書は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」マタ16:24、25。「神と富とに仕えることはできない。どちらかである。」「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。」等々。

そして私は、2016年8月28日に洗礼を受けました。水と霊とによって生まれ変わりました。生まれてから60数年間続いた道の大転換であり求めるものの入り口に辿り着いたと言う気持ちでした。

そして今日に続いています。毎朝、峠を越えて私1人だけの礼拝所に向かいます。そして感謝と祈りを捧げます。人の生活の外見上は何ら変わりません。ただ信仰があるか無いかだけです。私を選んでくださりこの道に導いてくれた神に感謝します。(写真は私1人だけの礼拝堂からの景色です。)

2019年9月14日 (土)

夏の終わり

今日は午前中、キュウリの木の整理、なすの整理。玉ねぎ予定地への堆肥の運搬、夏野菜の整理が進み、一方冬を越す野菜の準備が始まります。少し、もの悲しさも感じますが…。  空もすっかり澄み渡り秋の空です。こんな気持ちの良い空間で体を使う仕事が出来るのはなんて幸せなことでしょう。  感謝!

趣味全てはどこに?ーー番外編、そして核心へ!ーその1

山、読書、音楽、絵、それぞれに一生懸命取り組みました。でもそれらを追い求める核心は何だったのでしょう?前にも書きましたが私は6歳で父を失い9歳で母を失いました。何で?父親がいないだけで片親と差別される時代です。それだけで十分に不幸でした。それなのに何故?神様は私ばかりを試練に合わせるのですか?続けて母を失い経済的にも精神的にも貧しさの底にいました。ただこの二つの大きな悲しみを経験し、世の中に今日あり、また明日もそのままに在ると言う事などないのだ、いつ何が起こるのかわからないのだ、勿論自分の命も。いわゆる「諸行無常」を身をもって知りました。そしてその時から私は目に見えるものは必ず終わりがある、形あるものはいずれ壊れる、目に見える世界に絶対的に頼れるものは無い、と身をもって知り、絶対的に変わることのないもの、それは見えないもの、いわゆる「真理」と言うようなものを探し求め始めました。高校の頃哲学的命題に夢中に議論したのもその事でした。ヨーロッパ文学に夢中になったのもその精神性でした。芸術家の生き方を尊敬したのも彼らが「美」と言うようなものを追い続ける姿勢でした。トルストイは裕福な貴族でしたが自分が富んでいる事に悩みました。財産を全て放棄しようとしました。そして3回目の家出をした時、とある駅で病気で苦しまれなくなりました。彼が求めたのは賢治の言う「本当の幸せ」だったのだと思います。私も本当の幸せを求め山登りから読書、音楽へ絵画へと遍歴します。そしてその間もずっと学んでいたのは仏教です。ブッダについて、そしてのちには禅宗に憧れ、特に道元の生き方に惹かれました。このように人生を歩んで来たものはいつまでもサラリーマンをやっていられる訳がありません。そんなおり50代半ばで高速道路で事故を起こしました。幸い大した怪我もなく救われましたが、いよいよ明日のことは分からないと実感し会社を辞め山奥に引きこもりました。それから毎朝、夕座禅をし、農業、読書、基本自給自足して一種の修行のように真理を追い求めました。しかし結果は惨めなものでした。座禅を通して自分が見えてくるに従い、自分の弱さ、罪深さが見えてきて殆ど絶望的になりました。このまま自分で努力を重ねても結局求めるところに到達出来ないと思いました。そんな時親鸞に触れることが出来ました。親鸞も幼くして親を失い9歳だったか?で出家します。比叡山で20年修行しても悟りを開くどころか煩悩の塊として自分が見えて来て苦しまれます。そこで法然に出会い他力の思想に入ります。いわゆる阿弥陀様に救いを求める。と言う事でしょうか。私は犬飼さんの新約聖書物語も何回か読んでおりまた聖書も時々は読んでいました。そして親鸞に学んだ頃から聖書を読みふけるようになります。そして眼が覚めるように分かったことは「今まで自分の幸せを求め自分の内面に目を向けて悪戦苦闘してきて尚到達できなかった真理というようなこと、それは自分に向いていた目を外に向ける例えば親鸞の言う阿弥陀様に、キリスト教で言う神と隣人へ」と方向を180度変えることでした。それから聖書を勉強しました。分からないところも多く、教会へも行くようになりました。キリスト教で言う「原罪」とは神様に目を向けるべきところを神に背いて自分の思いに向ける(神に背を向ける)ことであり、悔い改めるとはその向きを180度戻し神に向かうと言うことでした。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ4:13〜14とあります。いろいろな趣味、運動、美食、旅行、お酒…etc.それぞれに楽しい、人はできるだけ多くこれらの楽しい事を繋げて楽しみたいと思う。しかしその水は飲んでも飲んでもまた渇き、欲しくなる。と言う事です。

知らない間にこんなに長くなってしまいました。また続きを書きます。感謝!