夏の終わり
今日は午前中、キュウリの木の整理、なすの整理。玉ねぎ予定地への堆肥の運搬、夏野菜の整理が進み、一方冬を越す野菜の準備が始まります。少し、もの悲しさも感じますが…。 空もすっかり澄み渡り秋の空です。こんな気持ちの良い空間で体を使う仕事が出来るのはなんて幸せなことでしょう。 感謝!
今日は午前中、キュウリの木の整理、なすの整理。玉ねぎ予定地への堆肥の運搬、夏野菜の整理が進み、一方冬を越す野菜の準備が始まります。少し、もの悲しさも感じますが…。 空もすっかり澄み渡り秋の空です。こんな気持ちの良い空間で体を使う仕事が出来るのはなんて幸せなことでしょう。 感謝!
山、読書、音楽、絵、それぞれに一生懸命取り組みました。でもそれらを追い求める核心は何だったのでしょう?前にも書きましたが私は6歳で父を失い9歳で母を失いました。何で?父親がいないだけで片親と差別される時代です。それだけで十分に不幸でした。それなのに何故?神様は私ばかりを試練に合わせるのですか?続けて母を失い経済的にも精神的にも貧しさの底にいました。ただこの二つの大きな悲しみを経験し、世の中に今日あり、また明日もそのままに在ると言う事などないのだ、いつ何が起こるのかわからないのだ、勿論自分の命も。いわゆる「諸行無常」を身をもって知りました。そしてその時から私は目に見えるものは必ず終わりがある、形あるものはいずれ壊れる、目に見える世界に絶対的に頼れるものは無い、と身をもって知り、絶対的に変わることのないもの、それは見えないもの、いわゆる「真理」と言うようなものを探し求め始めました。高校の頃哲学的命題に夢中に議論したのもその事でした。ヨーロッパ文学に夢中になったのもその精神性でした。芸術家の生き方を尊敬したのも彼らが「美」と言うようなものを追い続ける姿勢でした。トルストイは裕福な貴族でしたが自分が富んでいる事に悩みました。財産を全て放棄しようとしました。そして3回目の家出をした時、とある駅で病気で苦しまれなくなりました。彼が求めたのは賢治の言う「本当の幸せ」だったのだと思います。私も本当の幸せを求め山登りから読書、音楽へ絵画へと遍歴します。そしてその間もずっと学んでいたのは仏教です。ブッダについて、そしてのちには禅宗に憧れ、特に道元の生き方に惹かれました。このように人生を歩んで来たものはいつまでもサラリーマンをやっていられる訳がありません。そんなおり50代半ばで高速道路で事故を起こしました。幸い大した怪我もなく救われましたが、いよいよ明日のことは分からないと実感し会社を辞め山奥に引きこもりました。それから毎朝、夕座禅をし、農業、読書、基本自給自足して一種の修行のように真理を追い求めました。しかし結果は惨めなものでした。座禅を通して自分が見えてくるに従い、自分の弱さ、罪深さが見えてきて殆ど絶望的になりました。このまま自分で努力を重ねても結局求めるところに到達出来ないと思いました。そんな時親鸞に触れることが出来ました。親鸞も幼くして親を失い9歳だったか?で出家します。比叡山で20年修行しても悟りを開くどころか煩悩の塊として自分が見えて来て苦しまれます。そこで法然に出会い他力の思想に入ります。いわゆる阿弥陀様に救いを求める。と言う事でしょうか。私は犬飼さんの新約聖書物語も何回か読んでおりまた聖書も時々は読んでいました。そして親鸞に学んだ頃から聖書を読みふけるようになります。そして眼が覚めるように分かったことは「今まで自分の幸せを求め自分の内面に目を向けて悪戦苦闘してきて尚到達できなかった真理というようなこと、それは自分に向いていた目を外に向ける例えば親鸞の言う阿弥陀様に、キリスト教で言う神と隣人へ」と方向を180度変えることでした。それから聖書を勉強しました。分からないところも多く、教会へも行くようになりました。キリスト教で言う「原罪」とは神様に目を向けるべきところを神に背いて自分の思いに向ける(神に背を向ける)ことであり、悔い改めるとはその向きを180度戻し神に向かうと言うことでした。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ4:13〜14とあります。いろいろな趣味、運動、美食、旅行、お酒…etc.それぞれに楽しい、人はできるだけ多くこれらの楽しい事を繋げて楽しみたいと思う。しかしその水は飲んでも飲んでもまた渇き、欲しくなる。と言う事です。
知らない間にこんなに長くなってしまいました。また続きを書きます。感謝!
教室に再入学して本格的に絵画に取り組みました。教室の人数も増えてきて資金的にも少し余裕が出てきたことから時々はモデルさんを頼むことも出来ました。最初の裸婦の時は少し緊張しました。しかし裸婦、いわゆる女性の裸、をしっかり見て、その美しさにも感動しました。そしてまた静物など書きました。私は最初具象画を描いていましたが、だんだんつまらなくなってきて、いわゆるデフォルメしたりするようになりそして抽象へと進みました。最初はその日その日で教室としてのモチーフがありました、しかしそれだと自分がこれで良いと筆を置くところまで同じテーマで書き続けることができず、先生と相談して別途「大作コース」を作っていただきました。そこでは自分の描きたいものをいつまででも、自分がこれで良いと思うところまで描きつづけることが出来ます。ここからが本当の絵画となりました。絵が終わると例によって一杯始まります。そこでは絵画論、作家論、美についてなど議論しながら飲みます。それから場所を変え二次会、そしてカラオケへと楽しい時間でした。先生も小さい頃両親を亡くしており、また絵画以外にも文学、哲学、音楽、宗教等造詣が深く2人で飲むとお互い熱くなり果てしなく議論したものです。先生はバッハが好きでよくバッハに ついて熱く語ってました。それが私もやがてバッハに惹かれる行くきっかけだったかも知れません。そうやって絵を描き議論を重ねるうちに本当に気心知れた心友のようになりました。絵の何たるかも少し分かったように思います。この先生がいなかったら絵も途中で嫌になっていたかもしれません。勿論私も近代絵画の歴史とかもしっかり勉強しました。好きな画家は近代絵画の父セザンヌ、ゴッホ、マチス、クレー、カンディンスキー、ロスコ、等々です。もちろん先生の絵も大好きでした。グループ展も時々開きました。そんな風に25〜6年絵を描き続けました。基本的に仕事は嫌いでしたから40代からは第2の人生について考えていました。元々定年になったら故郷に帰ることは東京に出て来た時から決めていましたが、山、本、音楽、絵と趣味が広がるにつれ田舎に帰って百姓をしながら自給自足を理想に、好きなだけこれらの事をやりたいと考え、段々早期退職制度の利用も考えるようになりました。先生にアトリエを作るとしたらどんな事に気を付けつけるかとか質問するようになっていました。50代初めに田舎に庵を確保して週末を過ごしながら田舎暮らしの練習、そして50代半ばで田舎暮らしを始めます。念願のアトリエもあり思う存分絵が描けると張り切りました。そして今に至ります。
こうして仕事、そして趣味、そして今田舎暮らしへと私を導いてくださった主に感謝します。写真は私の拙い作品です。油絵。
絵画教室の初日、生徒は私と年配のご夫婦の3人でした。先生の略歴を見ると東京芸大卒、フランス留学で現在は個展を中心にフリーに活動となっています。芸大卒と言うだけでビビリました。一応スケッチブックとエンピツ、消しゴムだけ持って行きました。そして先生に恐る恐る「昔、遊びで少し描いたことがありますがこれを機にゼロから始めたい。デッサンの基礎から教えてください」と申し上げました。先生は分かりました。と答えられ取り敢えず必要なものを言ってくれました。スケッチブック、エンピツは薄いものから濃いものまで6〜7本、それにネリ消しゴム、私は普通の消しゴムを持って行ったので少々恥ずかしかったです。そして取り敢えず今日のテーマである静物、花瓶とリンゴだったかを描いてみてくださいと言われました。先生の前で描き始める時、緊張から少し手が震えたのを覚えてます。これが先生との最初の出会いでした。教室は毎週で一回2時間が基本でした。静物は生物が入っており毎週変わります、一方デッサンは2時間では終わらずその度に中途になります。そうしているうちにミケランジェロの石膏の胸像を購入してくれました。それからはミケランジェロに毎週没頭しました。一ヶ月以上ひたすらミケランジェロに取り組んだでしょうか。先生が「これから美大入試を受ける生徒みたいだね。」と褒めてくれました。時々ご覧になって手を入れてくれます。影の部分もエンピツの腹は使いません。いつもエンピツの先は研いでいて線を引くことで濃淡も表しますが、先生のエンピツの線は線の間隔、線のスピード、本当に美しい線で感激しました。そうやって半年くらいデッサンを続けたでしょうか。生徒は年配夫婦はやめられ新しく私と同い年位の女性が入りました。その頃には先生ともすっかり打ち解けていましたが、先生に私も油絵を描いてみたいと話し道具を揃えました。そうやって油絵を2〜3枚描いたでしょうか?新しい女性の生徒も先生も私もお酒が好きで昼過ぎに教室が終わると少し遅めの昼食がてら蕎麦屋に行きます。そこで毎週宴会が始まるようになりました。も1人男性が入って来ました。この人も酒が好きでユーモア溢れる人で益々宴会は盛り上がりました。そうやって2年半くらい経った頃私が大阪へ転勤になりました。残念でたまりませんでしたが、仕方なく教室をやめ大阪へ行きました。大阪では教室には入らずスケッチに京都、奈良に出かけたり、社宅で油絵を描いていました。3年して東京に戻りました。早速教室に顔を出すと先生はいらっしゃいました。生徒も7〜8人に増えており作品を見てみるとかなり熟練の方も数人居ました。私は早速入校しました。ここからが本格的に油絵に取り組む事になります。
長くなりましたので続きはまた書きます。(写真は私の拙い作品です。水彩です)
私と絵画との出会いは18歳の頃山に登り始めた時からです。山に登り休憩時間にはスケッチをしました。何しろ単独行なので自由です。風景、高山植物等勝手気ままに油彩のサインペンで線描します。そして帰りの電車で色鉛筆で彩色、あるいは寮に帰って次の日曜日とかに水彩で彩色、といった具合です。しかしそのうちにもう少し本格的に絵を描いてみたくなりました。基本、何でも独学なので、それにはまずデッサンだと思い石膏像を買ってきて寮の部屋に置きました。そして日曜日とかにデッサンに励みました。長い時間を対象物と自分の作品とだけに集中してひたすらエンピツを動かすのは結構自分的で充実していました。そのうちに油絵に挑戦してみたくなり一揃え道具を揃えました。キャンバスを持って銚子の犬吠埼に行きました。そして初めての作品を描きました。まあしかし作品は当然ながら恥ずかしいものでした。しかし懲りずにその後も何枚か描きました。でもこの頃は絵が何なのか全く分かっていませんでした。小学生の写生と同じです。その頃テニスとスキーを始めており基本的には凝り性ですので絵からは遠のきテニス、スキーに燃えていました。絵の道具も結婚で退寮(29歳)の時後輩にあげてしまい一応絵から足を洗ったことになりました。その後30歳代半ばを過ぎた頃、会社が週休2日になる事になりました。その数年前から土曜日は月1回休み、そして隔週で休みと徐々に土曜日休みは経験していましたが、振り返ってみると結局何をすることなくその日が終わってました。これではこのまま週休2日になってもきっと同じことになってしまう。これを機に何かやろうと思うようになりました。会社でそんな話になると「俺も考えていてカメラでも始めよう」と言う人がいました。私はどうしてそんな思いが浮かんできたのかわかりませんが「そうだ20代で止めてしまった絵を本格的に始めてみよう」と思いました。すると良くしたものでそう思った矢先ある朝、新聞の折り込みチラシを見ていると新しく絵画教室ができ生徒募集が目に留まりました。基本的には人見知りであり、知らない人に指導を受け、知らない人達と絵を描くなどは敬遠するタイプですが、この時は即座に申し込みをしました。後で考えると不思議ですが全ては神様がレールを描いてくれていたのだと感謝します。そしてなんと言ってもこの時にK先生に出会います。勝手に言えばのちに心友となってくれる先生でした。この先生との出会いが本格的に絵の世界に引き込みます。例によって長くなりましたので今日はこの辺で!(写真は私の拙い作品です)
今日は早朝より草刈り、今日は暑くなるとの予報につきなるべく早いうちにと。ビーバー燃料満タン草刈り開始。前回はいつ刈ったのだろう?一ヶ月少し前くらいか?雑草だけはどんな環境でも元気に育つ、野菜を育てることから見れば羨ましい!これから山奥のこの地は急速に寒くなってくるので今年の草刈りがこれが最後となることを祈る。山奥の畑、田は斜面が(いわゆるのり面の傾斜)が多くて大変だ。それでもここ4日間くらい毎日少しづつ刈ってきて今日でひと段落、これをシーズン中に4〜5回やる。老人にはだんだん堪えるようになってきた。
そしてこの刈り草を4〜5日そのまま乾かす。それを全部集めて堆肥に積む、これが再来年の堆肥になる。いわゆる有機農法の肥料です。昔はみんなそうしてたものですが今はこの山村でもこのように刈り草を堆肥に使う人も余りいない。時間があって金のない私にはあっている。が結構大変だ。
こうして今日の農作業が終わる。今日もこうして元気に働けることに感謝します。
それ以外にはショパン、ブラームス、シューベルト、ビバルディ、チャイコフスキー、ハイドンなどを聴いていました。そして年数回コンサートに行きます。コンサートもそのうち室内楽を小ホールで聞くのが好きになり文化会館の小ホールが好きでした。室内楽のコンサートは大ホールでの割とポピュラーな曲に比較するとマイナーで聴衆も本当にクラッシックが好きな人が多いように感じました。曲が終了した時のホール全体をつつむ沈黙感が最高でした。みんなの気持ちが演奏に、曲に集中してその研ぎ澄まされた沈黙が、精神がホール全体を支配していました。そして30歳代後半にバッハにたどり着きます。これには後で趣味、絵画のところで登場するK先生との出会いが影響していると思いますがそれについてはまた後日。
バッハは最初宗教曲から入りました。カラヤンのマタイ受難曲、ミサ曲ロ短調、そして無伴奏チェロ、無伴奏クラヴィア等へ。彼の時代には当然求められたものだと思いますが形式に厳格な計算され尽くされたようなメロディに段々と惹かれて行きました。所謂ヨーロッパの形式美的な、そしてそこからくる緊張感が自分の精神を清めてくれます。武満さんが「音沈黙とはかりあえるほどに」?だったか著作がありますが優れた音楽はいつも沈黙と並行して流れており音が止まると沈黙だけが残る。と言う感じでしょうか?確かピカートに「沈黙の世界」と言う本がありましたが彼の言う全てに満ち足りているような充満した沈黙の世界があるように思います。
これで音楽についてを終わります。こうしてクラッシックの道に導いてくださった神に感謝します。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」箴10:22
私とクラッシック音楽との出会いは18歳の時でしょうか。
私の勤務地の近くの学校に通っている高校の同級生がいました。その学校に通っていることは知りませんでしたがある日会社を出た時バッタリ彼に会いました。それでお互いのことを知りました。彼は高校の時私の隣の席でしたがそれほど話をした中でもありませんでしたが、お互い東京に出てきてまだ間も無くどこか寂しさはありましたからそれからは毎月2回ほどは飲むようになりました。私の給料日と彼の給料日です。そこでの話の中でクラッシックの話が出ました。彼は一人暮らしの叔父さんと住んでましたがその叔父さんがクラッシックフアンでした。その影響か彼もクラッシックについて一応の事を私に話します。一度叔父さんのところに遊びに来いと言う事でお邪魔しました。立派なオーディオがありバッハを聞かせてくれました。私は即座にオーディオが欲しくなり、そんな話をしていると叔父さんが現金で一括で買った方が安くなるからとお金を貸してくれることになりました。確か10万円位だったと思います。(その頃の私の月給は2万円でした)それをボーナス何回かで払えば良いと言うことでした。喜び勇んで当時の私には分不相応のオーディオを買いました。そして最初に買ったレコードがベートーベンの第九でした。ロマンロランの第九交響曲と言う本も読んでいましたし、ベートーベンの生涯も読んでいましたから迷いはありません。ただ当時クラッシックのレコードは一枚2千円以上しましたから私には給料の一割、高い買い物でした。しかし逆に月に2枚も買えないので毎日そのレコードを聴いていました。盤が傷んで数年後同じレコードを買い直すほど聞きました。それが良かったです。同じレコードを毎日聞くのでかなりのメロディを暗記して口ずさむことができました。また合唱の部分の歌詞はドイツ語ですがロランの本を読んでいたので日本語で理解することが出来ました。多くの日本人が年末になると第九のコンサートに行くと言うのもわかる気もします。私も最初のコンサートはその年の暮れの上野の文化会館で第九を聞きました。感動で涙が溢れたことをよく覚えています。それから月に一枚くらいのレコードを買って何度も何度も聞きました。ベートーベンの他の交響曲、室内楽、宗教曲、それからモーツァルト、あの小林秀雄が「疾走する悲しみ」と言ったとか言う40番、そしてジュピターと言われる41番、室内楽、オペラ、宗教曲、モーツァルトの天上の音楽と言われるあの何とも言えない軽やかさが大好きでした。後年お金に余裕が少し出てきた時にはモーツァルトの全曲のCDを揃えたほどです。魔笛、フィガロ、レクイエム、ピアノ協奏曲、好きな曲は沢山あります。また、作曲家、楽曲に関する本もよく読みました。
やっぱり長くなります。今日はこの辺で。感謝!
その後しばらく三島由紀夫に傾注しました。彼の割腹自殺は昭和45年だったかと。彼の自殺のニュースを聞いて泣いていた友がいました。彼も川端とは違う耽美主義者であったかと?彼の作品で最も記憶に残るのは丁度市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺を図る前に完成されたと言われる「豊穣の海」4部冊でした。本の装丁も大変美しかったです。ピユアな恋愛小説とでも言える第1巻の「春の雪」本当に美しい恋愛です。そしてそこから始まる輪廻転生の物語それぞれの巻に主人公が出てきますがその主人公は第1巻の主人公が輪廻転生し生まれ変わった者そして4巻を通じて出てくる本田さんはそれぞれの立会人とでも言いますか?そして圧巻は最終の場面のお寺でその本田さんが直面するのは今までの全てを否定するような、何もなかったのごとくするような、何も無い世界に自分がいると言う終末。仏教の無、とか空と言うような世界。全てがあるのに何も無いと言うような世界です。これを読み終えた時衝撃でした。しばらく呆然としたのを覚えています。三島の辞世の句は「益荒男がたばさむたちの鞘なりに幾年耐えて今日の初霜」だったでしょうか?全て記憶の世界なので間違っていたら失礼!
そして辻邦夫もほとんど全て読みました。特に「嵯峨野明月記」「背教者ユリアヌス」などが好きです。彼の少し神秘主義的な作品に惹かれました。あとは日本の作家で特に読んだのは漱石、遠藤周作などなどです。
そしてこれらの読書生活の中でもずっと精神界に関心が深く、仏教関係の本、道元についての学び、犬飼さんの「新約聖書物語」などはずっと読み続けていました。これらが長じてやがて聖書に行き着き現在の愛読書といえば聖書です。よく無人島に一冊の本を持っていくとしたらと言う質問がありますが、現在は何と言っても聖書と答えるでしょう。この辺のところはまた書きます。
どうも書き出すと長くなります。ある意味一生を振り返っていますので。読書についてはこの辺で終わりにしておきます。続いて音楽について書きます。長くなって、もし読んでいてくださる方がいたら退屈かと思いますがお許しを!