今日は久し振りに東京へ里帰り、東京も少しは涼しくなったかな?と農作業も玉ねぎを植える前に手が空いたと言うところで里帰りです。
高速バスで新宿へ到着しました。人が多い、べっとりと暑い、何か匂いがする?やっぱ山里の空気にはとても敵いません。しかし便利だ、山手線はすぐに来る、しかし混んでいる。パタゴニアに寄ってショルダーバッグを見る。2種類あって悩みましたが、軽量、収納スペースでライトを選択、これで日帰りの出掛けにはアイパッドを入れても大丈夫!
それから自宅に向かいます。今日は久し振りに街で一杯飲めるかな?山里では街で飲んだら代行を頼むしかなく代行代が飲み代より高くつく。この点も街は良い。久し振りに4、5日滞在するのでしっかり栄養補給をして帰ります。
では、里帰りを楽しんできます。。🤗
毎日のウオーキングコースの道端にアケビが沢山あり、今旬を迎え、身が割れ、少し透き通る様な果実が見えます。食べてみると甘くて美味しいのですがタネが沢山ありタネを出すのが面倒です。昔はお菓子とか甘くて美味しいものがあまりない時代でしたので、このアケビが争奪戦のマトでした。早く取らないと他の人に取られてしまうので、まだ身が割れる前に取って、もみ殻の中に入れておくとだんだん熟して来ます。そんな、争う様に取って食べたアケビも今ではほとんど食べる人もおらず道端に沢山あっても誰もとりません。豊かになってアケビを忘れた、と言うところでしょうか?その分鳥やサルなどが食べているのでしょうか?世界は色々なものたちでバランスが取れ丸く収まっている様に見えます。こうして秋が段々と深まって行きます。ただ今年は暖かいせいか、或いは雨が少ないせいかキノコがほとんど出ないとか?松茸争奪戦もすっかり影をひそめています。平和な日々に感謝します。
「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」道元の本来の面目と言う詩だそうです。ただ当たり前のことを当たり前に詩っていると言えますか?その点では「五月雨をあつめて早し最上川」「荒海や佐渡に横たふ天の河」などにも見られるところかなと。そしてそれを見ている目は芭蕉の「よく見ればなずな花咲く垣根かな」の目と同じ目のように思われる。その目は毎日目の前の忙しさの中で見ているような見ていないような目ではなく、或いは自分の欲のサングラスを通して見る目ではなくいわゆる人間の本来の元々備わった心性本浄の目で見ていると言うことでしょうか?そしてそこには全てものがあるがままにその本来の面目の中にある。それは道元の言う「万法に証せられる」と言うことでしょうか?キリスト教では全ての被造物が神の栄光を表していると言うことでしょうか?。そして人間だけがリンゴを食べ罪に落ちた結果欲に曇ったその心で見ているということでしょうか?願わくば自我によって曇った心の雲を取り除き心性本浄の目で見て静かな平安の中にいられますように!感謝!
先だって住む世界について書きました。聖書にこんなみことばを見つけました。
肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。ガラテヤ5章「霊の実と肉の業」
あなたの住む世界はどちらですか?肉の世界?霊の世界?自分の心の中をじっと見つめると何がありますか?霊の実の中にいる人は霊の世界に住んでおり、肉の業に多く心当たりのある人は肉の世に、いわゆるこの世に、みんなと一緒の世界に住んでいることになるかと?そして私たちは多分生まれた時からこの世に生き、肉の業の内に生きているのかな?と。みんな多かれ少なかれ一緒の世界なので安心していられるかな?。でもそれで良いのかなと?
人は自分たちといわゆる常識が大きく違う人に「あの人とは住む世界が違う」と言うことがある。
私の住む世界、それは常識が概ね共通の人々との世界、物理的に同じエリア(例えば日本、或いは1つの地方など)に長く暮らし、学び、会話して歴史を重ねると基本的なものの考え方、いわゆる常識が概ね同じになる。例えば長く一緒に暮らした夫婦などは「あれ、それ」などで会話が成立し、正に「住む世界が一緒」と分かる。
今日、ある本を読んでいたら余白こんな事が書かれているのを見つけた。「人は霊の世界で満たされない限り本当の幸せはない。真理の世界」と。今日、同じ箇所を読みこのメモを読んで、「 人は」と言うと全ての人はと捉えられるが、みんなそうなんだろうか?むしろここで言う「人は」と言うのは特定の人であり、いわゆる一般の人から見れば「住む世界が違う」人と言うことにならないかと?この現在の日本では多くの人は、健康で程々にお金があり美味しいものを食べられ、たまには旅行にも行き、程々に良い着物、良い家、家族円満…etc.を幸せと呼び、それを求めて日々頑張っているのではないだろうか!それがいわゆる常識的ではないだろうか?とすればこのメモを書いた人は、この世の多くの人とは「住む世界」が違うと言うことにならないか?だとしたらこの世には住みにくい。多くの人も受け入れ難い。
なら、みんなと一緒の世界に戻ってきたら?しかし真理の世界を追求した者にとってはそれも虚しい。じゃあ、一体、どうしたらいいんだ🔑🚸一人、その道を行く気合も無いのか!
ところで、皆さんはどの世界に住んでいらっしゃいますか?願わくばみんなと一緒の世界に住んでおられますように!
本日は納竿日!納棺日ではありません。こちらはもう少し先にして頂きたい。(笑)
この辺の渓流釣りは9月30日で終了。禁漁期間に入ります。それで毎年9月最後に近い頃、シーズン最後の渓流釣りに出かけます。これで今シーズンの渓流釣りを終了し竿を終うので納竿日と称してます。今日はその納竿日の釣りに出かけました。この日は特別で「ランチ」を川原で取ります。と言ってもガスコンロを持って行ってラーメン、紅茶、クッキー、デザートの葡萄くらいですが。でも、午前中の釣りを終え河原でのんびりお湯を沸かしラーメン、紅茶、結構私としては気分は優雅です。今シーズンは息子の事故などあり例年より少ない回数ですが21回行きました。それぞれに恵みをいただき毎週のタンパク質補給に大いに助かりました。本当に清流、そして渓流魚を育ててくださり恵みとして与えてくださる神に感謝します。また、毎回祝福してくださり怪我もなくシーズンを終了できました。ありがとうございます。願わくば来年も元気に渓流釣りが出来る様にとお祈りします。感謝!
わたし、女房に罵られながらクリスチャン続けています。と言うことはまだクリスチャンと呼べるほどのものにはなっていないと言うことか?我が家ではクリスチャンはわたし一人だけです。女房、娘に教会に通い始めて1年半ほどした頃洗礼を受けようかと思うと打ち明けたところ、娘は洗礼は受けなくても教会には行けばいいんじゃない?女房、止めてよね!受けないで!それでその場はそんなに反対なら受けないよ、で終了。
それから約一年、ヤッパリ洗礼を受けました。またうるさいだろうと事後報告。そして報告したところ娘、無言。女房、裏切った。洗礼は受けないと言ったのに!以後、ことキリスト教に関しては反抗的。自分では一生懸命勉強して少しは聖化も進んでいると思っていても何かの拍子に小言を言うと3倍くらい言い返され、決まり文句は、よくそれでクリスチャンと言えるね!と罵られます。わたとしては辛い言葉で内心は本当に辛いですが無言で耐え忍びます。学べば学ぶほど導かれることが多く一方で今の女房に話したところで理解してもらうのは困難と耐え忍びながら学びを続けています。
こんなクリスチャン保育園生ですが、それでも主が共にいてくださる恵みに感謝しています。
洗礼を受けた時わたしは66歳でした。なぜこんな年になって洗礼を受けたのかそのうちブログします。
この間聖書を読んでいてイエスが死を前にした前の晩、いわゆる「最後の晩餐」で弟子たちに残したもの「パン」と「葡萄酒」による自分の体、自分の血を皆に分け与えることで残したもの。人は自分の最後を(病気を長く患い段々自分でもう長くないと自覚する様な場合を除けば)知ることは許されていないと思います。がもし私たちが自分はこの世の生は長くないと知った時、家族にあるいは人に何を残すのだろう?あるいは、そもそも残せるようなものを持っているのだろうか?と言うことを考えてみました。イエスはパンを裂いて与えこう言いました「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。ルカ22:19、20と。
よくあるのが「辞世の句」です。良寛の辞世の句は「形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」のようですが、この心境やいかに?良寛は書に優れており当時でも貴重だったとか。あるいは禅宗の僧として何か残せる様なものも持っていただろうと思いますが、その様なものでなく、良寛は辞世の句としてこの詩を残しました。透徹した良寛の心にとって自分は無となり、時に春の花であり、山になくほととぎすであり、もみじの葉であったのでしょうか?自分は春の花と同一であり、ほととぎすと同じであり自分は無く、故にまた全てであったのでしょうか?またこれは「末期の目」に映る抽象にまで化した花でありほととぎすでありもみじ葉だったのでしょうか?そしてそれは自分の至った心境でありそれを残したかったのでしょうか?人は裸でこの世に来て裸で去っていくといいますが、皆さん何か残せるものありますか?
もう一句「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」好きな句です。