2019年9月25日 (水)

畑が寂しくなりました。😢

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今日は午前中オクラの整理、サツマイモ掘り、畑もすっかい寂しくなりました。真ん中にこんもりしているのはヤーコンです。地中にサツマイモを白っぽくしたみたいなのが出来ます。サラダ、きんぴらなどに美味しいです。10月終わりに掘る予定です。後は10月下旬に玉ねぎを植えたらほぼ終わりです。畑仕事が終わると、わたしのひとりぼっちの田舎暮らしも終わりを迎えます。あと1ヶ月半ほどでしょうか!寂しいですが冬は氷点下の生活となり年寄りの身には厳しいですからね。

2019年9月24日 (火)

辞世の詩

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この間聖書を読んでいてイエスが死を前にした前の晩、いわゆる「最後の晩餐」で弟子たちに残したもの「パン」と「葡萄酒」による自分の体、自分の血を皆に分け与えることで残したもの。人は自分の最後を(病気を長く患い段々自分でもう長くないと自覚する様な場合を除けば)知ることは許されていないと思います。がもし私たちが自分はこの世の生は長くないと知った時、家族にあるいは人に何を残すのだろう?あるいは、そもそも残せるようなものを持っているのだろうか?と言うことを考えてみました。イエスはパンを裂いて与えこう言いました「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。ルカ22:19、20と。

よくあるのが「辞世の句」です。良寛の辞世の句は「形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」のようですが、この心境やいかに?良寛は書に優れており当時でも貴重だったとか。あるいは禅宗の僧として何か残せる様なものも持っていただろうと思いますが、その様なものでなく、良寛は辞世の句としてこの詩を残しました。透徹した良寛の心にとって自分は無となり、時に春の花であり、山になくほととぎすであり、もみじの葉であったのでしょうか?自分は春の花と同一であり、ほととぎすと同じであり自分は無く、故にまた全てであったのでしょうか?またこれは「末期の目」に映る抽象にまで化した花でありほととぎすでありもみじ葉だったのでしょうか?そしてそれは自分の至った心境でありそれを残したかったのでしょうか?人は裸でこの世に来て裸で去っていくといいますが、皆さん何か残せるものありますか?

もう一句「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」好きな句です。

 

疲れました

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土曜日から女房、娘、孫が来ていて先ほど一時間半、往復3時間かけて特急の止まる駅まで送って戻ったところです。一人暮らしが慣れてしまった身には疲れます。それからゴミが出ます。ペットボトル、瓶ゴミ、スーパーのトレイ…etc.一人暮らしではなるべくゴミを出さないように生活しているのでこれにも少々疲れます。これからまたしばらく一人暮らしとなりますので静かな暮らしに戻ります。わたしは出来る限りわたしのあるじと共に居たいのです。

2019年9月20日 (金)

四住期

今日人が訪ねて来て「四住期」の話になった。私は今「林住期」を生きている訳ですが、そもそも今の世に四住期などと言う発想があるんだろうか?私は幼くして人生の無常を知り50歳代半ばでこの山里で四住期のうちの林住期の生活を始めました。私にとってこの林住期に求めるのはピラトの言う「真理とは何か」の真理です。圧倒的に多くの人が真面目に真理などと言うことは考えないし、真理などと言えば笑われる時代(ピラトに笑われたイエスのように)、でも求め求めて渇く人も世に僅かにはいる。この山里で、一人暮らし、農業と、渓流釣り、そして聖書、仏教関連書を読みふけり自分を見つめて暮らす日々、禅の教科書に「10牛図」と言うのがあります。その十牛図の一枚一枚を生きてきた私、さしずめ今は牛を見つけ牛に乗って家に向かう道に入ったところでしょうか?牛を追いかける道に迷いこんだ私、でもこの道を行くしかない。願わくばやがて遊行期に入り一升徳利を抱え貧しげな姿で世を徘徊したい。もしこれが出来るなら、世にたとえ僅かでも尽くす事が出来るかと。十牛図で言えば真っ白な何もない絵にたどり着きそして10枚目のただ丸い「円」の世界に行けたらと思います。この世にある間は完全な円には辿りつけないかとは思いますが、この世を去る時にはそうありたいと思い、この林住期を生きています。今日、徒然なるままに…。

2019年9月19日 (木)

渓流釣り

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今年の渓流釣りシーズンもあと10日ほどになりました。名残惜しいです。

昔、テレビで最後から2番目の恋などと言う番組がありましたが、最後から2番目の渓流釣りに行って来ました。お世話になった川を毎週一本づつ訪ねて挨拶の釣りをしています。今日は家から20分ほどの川で先日久しぶりの尺イワナが上がった所です。もちろんそこにまた尺がいる訳ではありません。

それでもお陰様でまずまずの成果で週末に孫が来ると行っているので孫に初めてのイワナを食べさせてあげられそうです。こうしてイワナを育ててくれ、今日、こうして恵みとして与えてくれた神に感謝します。やっぱり渓流釣りはいいです。綺麗な水、緑の木々、清流の水音、その中で一人、釣り糸を垂れる。最高です!

2019年9月17日 (火)

カボチャの花

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カボチャもそろそろ終わりです。

これらの花は咲いても大きく実を結ぶことはないでしょう。それでも黙ってただ咲いています。咲いている「今」だけを見ているのでしょうか?

人間も「今」だけに生きていれば悩みも苦しみもなく、喜びもなく永遠を生きることになるのだろうか?

秋だねエ〜

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コスモスの花が咲きました。秋です。この山里の秋は早く空の色も空気も秋めいてきました。

note薄紅の秋桜が秋の日の陽だまりに何気なく咲いてます

そんな歌詞が知らずと浮かんできます。

「神のなさることは みなその時にかなって 美しい」コヘレト3章

2019年9月16日 (月)

趣味(6)農業

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農業は趣味と言うより生活の糧であり修行です。お寺でも修道院でも自分たちが食べる野菜はみんなで農作業し調達するとか。作務と言うのですかね。また道元は全ての立ち振る舞い、座禅するのも、作務も、顔を洗うのも、風呂に入るのも…etc.全て修行だと言います。私もただ黙々と汗水垂らし働くこと、目の前の「今」に無心に集中する事、それはヘッセの言うように「瞑想」だと思いますし、道元の言う修行だと思っています。それで出来るだけ人力で行うこと、効率とかは考えない、刈った草も全部干して集め堆肥に積み、翌々年の堆肥にします。したがって一昔前の農業スタイルです。そして神様が成長させてくれるのを感謝しながら待ちます。ダメになってもそれが御心と理解しています。でも雨を降らせ、太陽を登らせ私を養ってくださいます。猿の被害も神が育てられたものを神様が猿にも分け与えたと理解すれば諦めもつきます。(まだここには私のものだと言う匂いがしますが)まあいずれにしても自給自足のベースになるのが農業です。これも基本一人で出来ます。これに渓流釣りの魚を恵まれればもうご馳走です。

それに山里の一人暮らし、本を読んだり絵を描いたりだけでは暇であり暇つぶしにも一役買ってくれます。ありがたいことです。このように全てのことを自分の力、努力とかと考えず、全てのことはもっと大きな全宇宙を経綸する方の御心によってなっている。と考え、自分はへり下りその方への感謝で暮らすことは農業から教えてもらうことが多く,何よりの学びです。こんなことが私の農業です。何よりも何よりも頭を下げて感謝をして生きることです。「実るほどに こうべを垂れる稲穂かな」です

これで一通りの趣味の紹介を終わります。少し私の生活も、この山奥に住む理由も分かっていただけたでしょうか?(写真は刈った草を集めた所です。この後一週間くらい干してそれから一箇所に集めて堆肥に積みます。)

趣味(5)渓流釣り

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渓流釣りにハマったのはこの山里に住むようになってからです。釣りは小さい頃から近所のお兄さんに連れられて川に行き、モロコ、ふな、などを釣っていました。後にルアーを覚えブラックバスなど釣りに行きましたがそれほどにはハマりませんでした。こちらに住み始めて、ある人にこの辺に住んでいるなら渓流釣りをやれよ!と言われ、その気になって道具を揃えました。渓流釣りの道具は勿論ピンキリでしょうがそれほど高いものではありません。しかも一度揃えてしまえばランニングコストはテグス、重り、針等で安いものです。あと鑑札を買いますがそれも一回ゴルフに行ったと思えばお釣りがきます。年券を買うので行けば行くほど一回あたりのコストは下がります。私は20回程は行くので一回あたりは数百円です。そうそう、今までやっていたゴルフもこちらに来てやめたので年間2〜30回行っていましたからだいぶお釣りがきます。(最もゴルフやめて浮いたお金はユニセフ、ワールドビジョンに寄付していますが…)加えて何と言っても立地です。一番近い川は歩いて数分ですがこちらは地元すぎてあまり行きません。車で30分見れば5〜6本の川に行けます。それと基本一人で出来ます。総合すると今までの趣味がみんなここに繋がっている事もあります。一人=単独行、山奥の源流域=山、自然、川の流れの音の中、ただ釣り糸を垂れる=絵、音楽の世界等々です。それで一度勧めてくれた人と一緒に行き手ほどきを受け、以後はすっかりハマり単独行です。それに出来るだけ自給自足を目指す生活には貴重なタンパク源です。勿論釣れる時もあるし釣れない時もあります。が、全ては御心のままにです。それに一人で食べるのですからたくさん釣る必要もありません。最初は釣れれば嬉しくてどんどん釣っていましたが、自分の享楽の為に多くの命を殺めてはいけません。今はせいぜい2〜3匹釣ったら止めることにしています。それが2日分の夕飯のおかずです。神様が育てられた渓流魚をこうしていただける恵みに感謝します。

その渓流釣りも9月30日で終了、禁漁期間に入ります。納竿日はガスボンベに食料、コーヒーなど持って行って川で感謝を捧げ昼食を取ろうと思ってます。こんな所にも山の装備、経験が生きてきます。全てに感謝します。

2019年9月15日 (日)

趣味全てはどこに?ーー番外編、そして核心へ!ーその2

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人は皆罪びととしてこの世にやってくる。赤ちゃんは確かに可愛い。しかし冷たい見方をするすれば自分の欲求だけを通す、主張する。お腹が空けば泣く、気分悪ければ泣く、親がそれに応える。そして食事が取れるようになる。自分の好きなものはもっと、と言い、嫌いなものは拒否する。そうやってこの世を生きていくすべを身につけていくのだが基本的に自分中心である。学校へ行き社会人になって行く過程でいわゆる社会の常識などを身につけ、人に優しくとか、人に譲るなども少しづつ覚えるが根っこにあるのは自分中心の生活心である。それは多分いつの時代であれ、この俗世間に暮らす人の普通の感覚だと思います。お金も程々に稼ぎ旅行にも行く、美味しいものを食べる、綺麗な服を着る、仲間と一杯やる、趣味に楽しい時間を過ごす。そして私は程々に幸せだと思う。だけど何か心に空虚なものを感じる。「本当の幸せ」って何だろう?と漠然と思っても追及はしない。

そのような中で私は聖書に出会います。自力の道を自分なりに求めてみて挫折して他力の道に方向転換、そこで聖書に、キリストに向かいます。イエスは言われる「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と。思うに宗教は多くの場合「逆説的」であると。例えばこの世的には、お金持ち、財産豊富、名声ある、地位がある、等々が幸せと。しかし聖書は「貧しい人々は、幸いである」と言う。道元も「貧なるが道に近し」と言う。この世では自分の希望、望むものが適って幸せだと思う。何より自分の命が大事だと思う。しかし聖書は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」マタ16:24、25。「神と富とに仕えることはできない。どちらかである。」「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。」等々。

そして私は、2016年8月28日に洗礼を受けました。水と霊とによって生まれ変わりました。生まれてから60数年間続いた道の大転換であり求めるものの入り口に辿り着いたと言う気持ちでした。

そして今日に続いています。毎朝、峠を越えて私1人だけの礼拝所に向かいます。そして感謝と祈りを捧げます。人の生活の外見上は何ら変わりません。ただ信仰があるか無いかだけです。私を選んでくださりこの道に導いてくれた神に感謝します。(写真は私1人だけの礼拝堂からの景色です。)