辞世の詩
この間聖書を読んでいてイエスが死を前にした前の晩、いわゆる「最後の晩餐」で弟子たちに残したもの「パン」と「葡萄酒」による自分の体、自分の血を皆に分け与えることで残したもの。人は自分の最後を(病気を長く患い段々自分でもう長くないと自覚する様な場合を除けば)知ることは許されていないと思います。がもし私たちが自分はこの世の生は長くないと知った時、家族にあるいは人に何を残すのだろう?あるいは、そもそも残せるようなものを持っているのだろうか?と言うことを考えてみました。イエスはパンを裂いて与えこう言いました「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。ルカ22:19、20と。
よくあるのが「辞世の句」です。良寛の辞世の句は「形見とて何か残さん春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」のようですが、この心境やいかに?良寛は書に優れており当時でも貴重だったとか。あるいは禅宗の僧として何か残せる様なものも持っていただろうと思いますが、その様なものでなく、良寛は辞世の句としてこの詩を残しました。透徹した良寛の心にとって自分は無となり、時に春の花であり、山になくほととぎすであり、もみじの葉であったのでしょうか?自分は春の花と同一であり、ほととぎすと同じであり自分は無く、故にまた全てであったのでしょうか?またこれは「末期の目」に映る抽象にまで化した花でありほととぎすでありもみじ葉だったのでしょうか?そしてそれは自分の至った心境でありそれを残したかったのでしょうか?人は裸でこの世に来て裸で去っていくといいますが、皆さん何か残せるものありますか?
もう一句「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」好きな句です。
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