趣味全てはどこに?ーー番外編、そして核心へ!ーその2
人は皆罪びととしてこの世にやってくる。赤ちゃんは確かに可愛い。しかし冷たい見方をするすれば自分の欲求だけを通す、主張する。お腹が空けば泣く、気分悪ければ泣く、親がそれに応える。そして食事が取れるようになる。自分の好きなものはもっと、と言い、嫌いなものは拒否する。そうやってこの世を生きていくすべを身につけていくのだが基本的に自分中心である。学校へ行き社会人になって行く過程でいわゆる社会の常識などを身につけ、人に優しくとか、人に譲るなども少しづつ覚えるが根っこにあるのは自分中心の生活心である。それは多分いつの時代であれ、この俗世間に暮らす人の普通の感覚だと思います。お金も程々に稼ぎ旅行にも行く、美味しいものを食べる、綺麗な服を着る、仲間と一杯やる、趣味に楽しい時間を過ごす。そして私は程々に幸せだと思う。だけど何か心に空虚なものを感じる。「本当の幸せ」って何だろう?と漠然と思っても追及はしない。
そのような中で私は聖書に出会います。自力の道を自分なりに求めてみて挫折して他力の道に方向転換、そこで聖書に、キリストに向かいます。イエスは言われる「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と。思うに宗教は多くの場合「逆説的」であると。例えばこの世的には、お金持ち、財産豊富、名声ある、地位がある、等々が幸せと。しかし聖書は「貧しい人々は、幸いである」と言う。道元も「貧なるが道に近し」と言う。この世では自分の希望、望むものが適って幸せだと思う。何より自分の命が大事だと思う。しかし聖書は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」マタ16:24、25。「神と富とに仕えることはできない。どちらかである。」「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。」等々。
そして私は、2016年8月28日に洗礼を受けました。水と霊とによって生まれ変わりました。生まれてから60数年間続いた道の大転換であり求めるものの入り口に辿り着いたと言う気持ちでした。
そして今日に続いています。毎朝、峠を越えて私1人だけの礼拝所に向かいます。そして感謝と祈りを捧げます。人の生活の外見上は何ら変わりません。ただ信仰があるか無いかだけです。私を選んでくださりこの道に導いてくれた神に感謝します。(写真は私1人だけの礼拝堂からの景色です。)
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