趣味全てはどこに?ーー番外編、そして核心へ!ーその1
山、読書、音楽、絵、それぞれに一生懸命取り組みました。でもそれらを追い求める核心は何だったのでしょう?前にも書きましたが私は6歳で父を失い9歳で母を失いました。何で?父親がいないだけで片親と差別される時代です。それだけで十分に不幸でした。それなのに何故?神様は私ばかりを試練に合わせるのですか?続けて母を失い経済的にも精神的にも貧しさの底にいました。ただこの二つの大きな悲しみを経験し、世の中に今日あり、また明日もそのままに在ると言う事などないのだ、いつ何が起こるのかわからないのだ、勿論自分の命も。いわゆる「諸行無常」を身をもって知りました。そしてその時から私は目に見えるものは必ず終わりがある、形あるものはいずれ壊れる、目に見える世界に絶対的に頼れるものは無い、と身をもって知り、絶対的に変わることのないもの、それは見えないもの、いわゆる「真理」と言うようなものを探し求め始めました。高校の頃哲学的命題に夢中に議論したのもその事でした。ヨーロッパ文学に夢中になったのもその精神性でした。芸術家の生き方を尊敬したのも彼らが「美」と言うようなものを追い続ける姿勢でした。トルストイは裕福な貴族でしたが自分が富んでいる事に悩みました。財産を全て放棄しようとしました。そして3回目の家出をした時、とある駅で病気で苦しまれなくなりました。彼が求めたのは賢治の言う「本当の幸せ」だったのだと思います。私も本当の幸せを求め山登りから読書、音楽へ絵画へと遍歴します。そしてその間もずっと学んでいたのは仏教です。ブッダについて、そしてのちには禅宗に憧れ、特に道元の生き方に惹かれました。このように人生を歩んで来たものはいつまでもサラリーマンをやっていられる訳がありません。そんなおり50代半ばで高速道路で事故を起こしました。幸い大した怪我もなく救われましたが、いよいよ明日のことは分からないと実感し会社を辞め山奥に引きこもりました。それから毎朝、夕座禅をし、農業、読書、基本自給自足して一種の修行のように真理を追い求めました。しかし結果は惨めなものでした。座禅を通して自分が見えてくるに従い、自分の弱さ、罪深さが見えてきて殆ど絶望的になりました。このまま自分で努力を重ねても結局求めるところに到達出来ないと思いました。そんな時親鸞に触れることが出来ました。親鸞も幼くして親を失い9歳だったか?で出家します。比叡山で20年修行しても悟りを開くどころか煩悩の塊として自分が見えて来て苦しまれます。そこで法然に出会い他力の思想に入ります。いわゆる阿弥陀様に救いを求める。と言う事でしょうか。私は犬飼さんの新約聖書物語も何回か読んでおりまた聖書も時々は読んでいました。そして親鸞に学んだ頃から聖書を読みふけるようになります。そして眼が覚めるように分かったことは「今まで自分の幸せを求め自分の内面に目を向けて悪戦苦闘してきて尚到達できなかった真理というようなこと、それは自分に向いていた目を外に向ける例えば親鸞の言う阿弥陀様に、キリスト教で言う神と隣人へ」と方向を180度変えることでした。それから聖書を勉強しました。分からないところも多く、教会へも行くようになりました。キリスト教で言う「原罪」とは神様に目を向けるべきところを神に背いて自分の思いに向ける(神に背を向ける)ことであり、悔い改めるとはその向きを180度戻し神に向かうと言うことでした。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ4:13〜14とあります。いろいろな趣味、運動、美食、旅行、お酒…etc.それぞれに楽しい、人はできるだけ多くこれらの楽しい事を繋げて楽しみたいと思う。しかしその水は飲んでも飲んでもまた渇き、欲しくなる。と言う事です。
知らない間にこんなに長くなってしまいました。また続きを書きます。感謝!
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