2021年1月 9日 (土)

ある日の雑記帳から(2)

蝶々さん:最後の武士の娘

昨夜(202081)Eテレで蝶々さん、最後の武士の娘、と言うドラマを見ました。引き込まれて最後まで(1130)見てしまいました。武士の切腹は敗北ではなく「美しく生きた証」と最後のナレーションにありました。主人公の蝶々さんはそのように生きてそして21歳で自害した武士の娘でした。この言葉と蝶々さんの生き様を考えさせられて、目が冴えてしばらく眠れませんでした。おかげで今朝は寝不足です。

私はこの世にあって「美しく生きている」のだろうか?又、今の世にあって「美しく生きる」とはどの様な生き方なのか?。考えさせられます。又、現代に生きる人が「美しく生きる」などと言うことを考えているのだろうか?「楽しく生きる」と言うことはいつも望んでいるだろうが

信じるものに殉死する。命より大事なものは自分の信じる信念。自分の命を大事にし、ただこの世で長生きするより、自分を捨て、信じるもののために生き、信じるものの為に死ぬ、信じる生き方が出来なければ死ぬ。信じる掟を守り通す。命を捨てて!歴史上の偉人と言われる人は皆、この信念を持っていたように思う。これがこの人間という動物に与えれれた、この世で生きるただ一つの気高い生き方なのではないか。コヘレトも最後に言っている。「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めをまもれ」これこ人間のすべて。と。それ以外のものは突き詰めればみな「空」であると。

2021年1月 8日 (金)

ある日の雑記帳から。

コロナで緊急事態宣言が出され、ステイホーム中、暇な時間をiPad で遊んでいたら昔書いたこんな記事が出てきました。ちょっとこ難しいですが、御覧あれ!しかし、肉の人はここに書かれたことではなく、ガースーに従って幸いを得よ!(笑)

神の慰めの書:p 118

聖アウグスチヌスは言う「主よ私はあなたを失うことを欲しなかった(あなたを欲した)、しかし、あなたと共に同時に被造物をも所有することを望んだのである(神の他に更にこの世的喜びをも求めた)。それは私の貪欲からであり、それ故にこそ私はあなたを失ったのである(神はご自分と共に肉の世のものを共存させ得ない)。あなたは人が真理そのものであるあなたと一緒に、同時に、虚偽なる被造物を所有することを許さない。と。

また「神のみを持って満ち足りない人は、貪欲に過ぎる」と言っている。

人は肉と霊からなる。霊にあって神と共にあることで全てが充足された平安の中にあり、それに満足せず肉の喜びをも求める欲、これは全て貪欲である。あとは全て御心とただ静かに受け入れることである。

それ故に人はこう言わなくてはならない「主よ、我が慰めなる神よ、もしあなたが私に、あなた以外の何ものかをお与えになるのでしたら、別のあなたをお与え下さい。なぜなら、私はあなた以外のいかなるものも欲しませんから」と。あなたが共にいてくださることが全てです。

神と共にあることがすべて。

海面が嵐によって荒れ狂おうと、なぎのように静かであろうと、深海が何ら影響を受けずにただ静かにそこにあるように、私の霊も目に見える世界がどうであれそれに左右されず、御心のままにと静かに受け入れ、神と共に平安のうちにあれ!

真に完全な人は、己自身に死、己自身の像を離脱し、神の意志の中へと形成される。これこそがその人の全浄福たるものである。このような人は、己自身並びにこの世の全てについては何の関知するところもなくただ神のみについて関知するのであり、神の意志以外の何事も知らず、また敢えて知ろうともしない。これが全身全霊で神を愛すると言うことでもある。

神と共に在り、ただ神にのみ従え!

「一切の被造物から離脱し、一切の被造物に(対する我が思いに囚われがなく、執着がなく、従って)貧しく乏しく無であることは、魂を高く神の中にまで運ぶのである。」しかし、このようなことは俗世に住む人間には不可能なことであり、余り気負わず、しかし神と共にあることを祈り、それ故に神がこの世のものから出来るだけ遠ざけてくださることを祈りながら生きることであるか?持ってこの世の全ての被造物に執着の薄い、貧しい者に造り替えていただくことである。それが魂の聖化である。

2021年1月 2日 (土)

あけましておめでとう!

2021年があけました。おめでとう!と言いながら、あまりおめでたくない年明けです。なんと言ってもコロナ、年末に東京は1300人台と一挙に大台を突破し、さらにどこまで広がるか分からない不安が覆っているからです。そんな禍の中、どうやって心、穏やかに暮らせば良いのだろう?良寛は「禍に遭うときには禍に会うのがよろしい」と越後の地震の時に言っています。それが禍の対処方法だと。良寛はその時点で曹洞宗の禅の修業を積んだ身、ある意味悟りを開いて越後での独居暮らし、そういう人はこのレベルの心境に至っているのかと思われる。しかし凡人は中々この心境に至って悠然と言うには至れない。法然、親鸞は全て阿弥陀様に委ねれば良いと…。ただ阿弥陀様を信じるを要とすと。キリストは自分の十字架を背負ってわたしに従えと言う。新年の始まりに、この心境に向かうことを自分の魂の道として、その道を進みたいと願う。それが今年、及び死ぬ日まで歩むべき道と定めたい。と考える2021年の初めです。

2020年12月31日 (木)

年末を迎え!

年末を迎え

2020年の年末を迎えました。今年もこの日を迎えられたことを何より神に感謝します。今年は何と言ってもコロナに振り回された一年であり、年末に向かってますます感染者が増加しており大きな不安に包まれて年の瀬を迎えています。なぜこんなことになってしまったのか?中国から始まったものではありますが、人間がグローバル化とかが絶対的に正しいとしてすすめて来たことが、このスピードで全世界に広めたことは間違いないことだと思います。もちろんそのグローバル化が各国に豊かさをもたらした一つの力であったとは思いますが…。言うなれば神は死に、この世の君の価値に従って日々を突き進む人類への神の怒りとも言えるかもしれません。その中にあって今、こうして穏やかに年末最終日を過ごしている恵みにただ感謝します。自分の努力とか行動によるものではなく、ただ神の恵みと感謝します。神は沢山の恵みを、能力を、私たちに与えてくれました。しかし未来を知る力だけは与えられませんでした。それ故に明日のことはもちろん、1時間先に起こることも、命があるか否かも人は知ることはできません。「あなた方のうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。」「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」それ故に全てを神に委ね、ただ神に願いの祈りを捧げ、その恵みに預かることしかできません。また神はあらゆるものを用いて怒りを表して人の目を覚そうとなさいます。疫病、戦争、災害、地震、大雪…etc 。 今年の最終日を無事に迎えられたことは一重に神の恵みと感謝します。ただ御旨に従った日々を過ごすことができますようにお導きください。一年を振り返り感謝を捧げ、神の祝福のうちに新年を迎えられますように。アーメン。

2020年12月25日 (金)

クリスマス

僕(しもべ)として生きる。

今日はクリスマス。イエスがこの世にお生まれになった日。この世は神が僕を送り、人々に、この世の君に染まっている心を180度向きを変え、神の方に向き直れ、と、何度も何度も使者を送っても人々はこの世の君に支配された世に染まり、悔い改めなかった。このままでは人は皆罪に落ちたままで救われない、どうしたら人が目を覚まして、この世の君に背を向け、神に向かい救われるかと考えた末、神はご自分の一人子イエスを世に送られた。それがイエスの誕生である。

そしてイエスはこの世にあって神を愛すること、隣人を愛することの見本となって暮らし、最後は究極の愛として、ご自分の命を、私たちの罪を神に赦してもらうための生贄として捧げ、十字架で死に、この世を去って神の元に帰られた。その命の代償によって私は罪を許された。

クリスマスを迎え、気持ちを新たにイエスの教えに従うことで、イエスの命の代償に少しでも応えられる様に、イエスの僕として、あるじに従順に従えることができますようにと祈ります。奴隷は主人には絶対に従わなくてはなりません。パウロは、私はキリストの奴隷だと言ってます。キリストの僕として主に従順であることができますように!主を賛美し、感謝を捧げ、クリスマスに祈ります。アーメン!

2020年12月24日 (木)

クリスマスイブ

天の父なる神様、私達を愛し、一人子をこの世に誕生させてくださりありがとうございます。神を賛美し、感謝を捧げます。馬小屋の様な私の心にイエス様が宿ってくださり、私の心に光が灯されました。イエス様がこの世に来ていただいた意味を知り、イエス様に倣って生きる道を教えてくださいました。神の愛に感謝を捧げ、十字架に感謝を捧げます。この世にあって私もまた自分の十字架を背負ってイエスキリストに従うことが出来る様に私の霊をお導きださい。そして、願わくば神の栄光を少しでも表すことができるように私を用いてください。

私達の父である神と、主、イエスキリストに言葉では言い尽くせない感謝を捧げ、クリスマスの夜を聖霊の臨在のうちに過ごすことができます様に!アーメン。

2020年12月18日 (金)

ウオーキングロード

今日は私のウオーキングロードの紹介です。写真中心です。お楽しみください。

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家から出て坂を降りた所です。手前は畑、奥は手賀沼です。

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家から約1km、手賀沼公園にある図書館、多目的ホール、学習施設等がある「アビスタ」です。

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手賀沼公園前の手賀沼です。夏には花火が上がります。今年はコロナで広い所で遊ぶことが推奨されているので子供達が沢山遊びに来ます。魚釣りも出来ます。

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家から1、5km辺りのウオーキングロードです。左側は住宅、右側は手が沼です。

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家から約2km来ました。手賀沼にかかる手賀大橋です。

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家から3kmほど来ましたウオーキングロードです。右手にまだまだ手賀沼が広がり開放感があります。

右手には田んぼ、畑が広がります。手賀沼を眺めながらの気持ち良い道です。

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折り返し地点、家から約4kmの滝の下公園です。ここでストレッチを20分位します。昔、絵を始めた頃みんなで写生に来たところです。ここでエンピツデッサンで風景画を描きました。今でもよく覚えています。ここで折り返すので往復約8kmの私のウオーキングロードです。

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帰路、白鳥が仲良く泳いでいました。

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手賀大橋とその横にある(写真の鉄塔の下に写っている屋根の建物)「天然温泉満天の湯」です。家から近く、露天風呂は源泉掛け流しの気に入っている日帰り温泉です。温泉は地下1,800mからくみ上げているとのことで、塩っぱいです。よく温まり夜、寝てからも温かいです。

天気の良い日はほぼ毎日ウオーキングに行きます。大きな手賀沼があるので(手賀沼は私の折返し地点のまだまだ先まで続いて広がっています。)自然も守られて静かで本当に素晴らしいウオーキングロードだと思います。本当に気に入っています。コロナで都会方面は遊びに行けないのでもっぱら自然に親しむ日々です。山里で毎朝峠を越えてのウオーキングも素晴らしいですが、この手賀沼のほとりを歩くロードも良いです!

2020年12月11日 (金)

1年ぶりのゴルフ!

昨日、1年ぶりにゴルフをしました。コロナ禍、ゴルフ場の⛳️対応も変わっていました。接触機会を出来るだけ作らないためゴルフバックは自分でカートまで運び、自分で積みます。受付も機械で対応しています。食事もテーブルの間隔を広げて食事の時間も短くなっていました。至る所で新しい生活様式が取りいられていると言うところです。メンバーは昔、一緒に絵を習っていたKさんご夫婦とKさんの紹介で出会ったKOさんの4人です。Kさんは77才になりますがお元気です。ただ数年前に久しぶりに出会った時に随分歳をとったな、と感じましたが今回1年ぶりにあったKさんは当たり前ですが更に歳を取られ、少しボケが始まっている様でした。パターも何処かへ忘れて来てしまうしスコアもよく数えられない様でした。絵を描いていた頃Kさんは機知に富み愉快で頭の回転の速い人でしたがそのギャップが大きいのでわたしの心に強くインパクトを与えました。私も、あと何年かしたらあんな風になるのかも知れない、或いは何か違う病にでもなっているか、あるいは元気でいるか、あるいはもう生きていないか?等々考えさせられます。すべては空であると言うコヘレトの言葉が浮かびます。人間は「考える」能力を与えられておりその力でここまで文明を築いてきたと言えますが、また逆に「考える」という能力故に苦しみ悩むと言う不幸も与えられている。人間という存在は一体何なのだと思う。それ故に神様が必要となり沢山の神様が生まれてきた。どうぞ一日一日と老いて行く老人の霊をお救いください。

2020年12月 4日 (金)

俗なわたし!

都会に戻り食べたかったもの。1、お寿司、2、うなぎ、3、蕎麦。この内、お寿司はすでにいただきました。某鮨屋の厳選プレミアムにぎり、これが気に入っている。これは山里には無い!、絶対に無い!街に出ようが近隣のもう少し大きな街に行こうがこれは食べられない。そして昨日、持ち帰りで鰻をいただく。このうなぎも気に入っている。やわらかく美味であった!まあ、これも山里ではいただけないか。あとは蕎麦であるが、これはそうどうしてもと言うほどのことはない。山里でも近いものは食べられる。

都会に戻った食の楽しみとはこれであり、コロナの制約の中、楽しみを得られました。しかしまあ、山里で一人孤独に生きながらも思索を重ね、学び、聖なるものになろうと努めているわたしが都会に戻れば、美味しいものを求めて囚われる。俗の抜けきれない私がいる。それでもまあこの程度のこととお許しください。人間とは不思議な生き物である!

私の業、私の分。

自分の業(わざ)

「私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。」コヘレト3:22

コヘレトは言う「空の空、空の空、一切は空である。」と。太陽の元に起こること全てが空であると。人の一生もまた何をやってみたところで空であると。どんなに知識を蓄えてみたところでそれもまた空であると。しかしそれでも人はこの世で生きており、働き、食を得て生きている。そしてその生き方、仕事、暮らしも千差万別である。裕福な人もいる。貧しい人もいる。社長もいる、国会議員もいる。サラリーマンもいる。農家もいる。。しかしその全ては空である。時が過ぎればもう思い出す人もいないと。時に他人の業を羨み、自分の境遇を嘆く、しかしそれもまたすべては空に帰す。羨まれたその人も裸でこの世を去って行く。資産1兆円の人も裸でこの世を去って行く。嘆いた自分もまた裸でこの世を去って行く。全ては空である。しかしこの世の多くの人は、そもそもこんなことを考えないし、そんな暇もなく日々は忙しく過ぎて行く。更に現代はスマホがあり情報に振り回される。ある意味幸せなことである。しかし、考えざるを得ない人もいる。神が重荷を背負わせた人、そのような分を与えられた人。イエスは言われた。重荷を背負った人は私の元に来るがいい。休ませてあげると。イエスの元に行ったら今の自分の業を嘆くのではなく、自分の業を感謝をして喜ぶ。自分の業の全てを「主、イエスにするように心から行う。」そこにあるのは自分の分であり、喜びである。その様に魂を変えられる。生まれ変わり、立つ位置、視点が変わったのだ。そこでは自分の分を感謝して受け取り、楽しめる。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」ヨハネ3:3

そしてコヘレトは最後に言う。「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて。」コヘレト12:13、と。