この水を飲む者は…。
この水を飲む者はだれでもまた渇く。ヨハネ4:13
この言葉は聖書に出てくる有名なイエスの言葉。井戸に水を汲みに来た女にイエスが語った言葉。人は皆渇きを癒そうと水を飲む、水が無くては生きていけない。しかし人が求めて飲む水は一時の癒しに過ぎずまた次の癒しを求める。これは比喩的な話で、例えば人は楽しみを求めて旅行に出かける。買い物に出かける。仲間とのおしゃべりに出かける。趣味に出かける。恋人に会いに出かける。…etc。しかしこれらは一時の癒しに過ぎない。一時の楽しみである。終わって少し経てばまた次の楽しみを求め彷徨う。また世は次々と新たな楽しみを提案して誘なう。そして人はそれに誘われて入って行く。しかしまた永続性のある癒しには至らない。この繰り返しがこの世であり、経済中心の世である。
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。ヨハネ4:14
しかし神から与えられる水、楽しみは永続性がありもはや渇くことなく次々に楽しみを求めて彷徨うことは無くなる。神から与えられる水とは何か?一言で言えば「聖霊」もう少し狭く言えば御言葉、御言葉によって心のうちに宿る喜び、御言葉により人の心が造り替えられ精神的な喜びに溢れる様になる。それは心が造り替えられたことであり、もはや次々に楽しみを外に求める必要はなく、その心に居ることが喜びとなる。しかしこの心境に至るにはこの世の生活に、この世の君の教育に慣れた人には容易では無いと思われる。何よりもまず目を覚ます必要があるが、その目を覚ます機会があるだろうか?生まれた時からずっとこの世の君の教育に染まっている身にはその機会が与えられるのは稀なこと、この世の君は、人々にほどほどの楽しみを与え、自分から逃れない様に飼い慣らしている。人はそのぬるま湯にいつも浸かっていたいと慣らされている。それ故に神の選び、恵みが無くてはその目を覚ます機会さえ与えられないかと…。でもこの世の君の教えに慣れず、もっと絶対的な喜びを求めて彷徨い歩く者、大きな悲しみで心を打ち砕かれた人、いわゆる貧しい者にはきっと神がささやきかけてくれる。いつも戸を叩いていると。こちらに来なさい。休ませてあげると。そして神からの水をいただく。願わくば恵みにより霊の国で憩うことが出来ますように!
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