2020年12月 1日 (火)

都会に戻って!

都会に戻って3週間余が過ぎました。溜まっていた雑事をこなしました。折れた釣竿の補填、インフルエンザの予防接種、人間ドック、気管支の経過観察受信、薬の補填、甲状腺の経過観察予約…etc 。と、なかなか忙しい。一方、コロナの心配が都会では大変だ。山里ではそもそも接する他人もおらず、従ってコロナのコの字も無いような生活だったので、毎日入る地元の感染者数を聞いているだけでも不安になる。まして東京はご存知の通り。東京に通勤する女房がおりこれも不安につながる。山里を出発する時はこれほどコロナの感染者数も無かったこともありそれ程不安もなく出て来たが、こんな様子ではたとえ寒くて仕方ないとしても、ストーブ、コタツなどで寒さは乗り越えられるので、都会でコロナの心配をしているよりは山里で越冬した方が良かったかなとも思う。しかし明日のことは誰にも分からない。全てを御心に委ねて心安らかに暮らしましょう!

あなたの富のあるところに、あなたの心もある。

あなたの大事なものはどこにありますか?。それはなんですか?。そこにあなたの心はあるんです。あなた方は地上に富を積んでいる。また、積もうとしている。それは財産であったり、着る物であったり、地位であったり、名誉であったり、評判であったり、立派な家であったり…etc。しかしそれらのものはみなすぐに移り行く。虫が食う、盗人に盗まれる。人は皆、裸で何も持たずこの世に来た、そしてなにも持たずこの世をさる。この僅かばかりの仮の住まいである地上に富を積んで何になる。富は天に積みなさいと。そこでは虫も食わないし、盗人が盗むこともない。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」マタイ6:21  あなたの心はこの地上のいろいろなものに向けれれており、そして次々にその関心事は変わっていく。飽きることもなく。そしてそのどれもが夢のようなものであるのに…。そしてそれがあなたの求めている富なのだ。宝なのだ。そう言うものではなく、変わることのない真理に眼を向け(心を向け)なさい。それが天に富を積むということ。

そしてまたこうも言われた。「だれも、2人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」マタイ6:24

2020年11月17日 (火)

蛍草 菜々の剣、最終回を見て!

今年の春、山里に出発するまでに菜々の剣を見終わることができず、最終回だけをビデオ予約して田舎に出発しました。約8ヶ月位田舎にいましたが、こちらに戻り早速ビデオで菜々の剣の最終回を見ました。「武士の娘としての誇り」これだけは命に変えても譲れないと言う心に心棒を持って生きる菜々、そしてこう言います。「武士の誇りとは、自分の正しいと思う道を命より大事に生きること」だと。そして勝てる見込みのない仇討ちに臨みます。

現代は皆沢山の知識を自分のうちに蓄え、その集積を経験的自我とでも言うならその自我に照らし合わせて日々を生きている。そして日々情報を取り入れてさらに知識を集積しながら自我を形作っていく。そしてその自我によって日々生きるのに必要な判断をしているが、よく考えてみれば借り物の知識の積み重ねがベースでありその判断が正しいか否かも定かではないのではないか?とすれば現代の人々はいかにふらふらとこの時代を、この時代に振り回されながら彷徨い生きているのだろうか?それに対して信念に従って生きる人は何か強さとか美しさとかを感じさせる。昔から偉人と言われる人は皆信念を持って生きていた。例えば西郷隆盛は「敬天人愛」であった。また、企業も昔は「家訓」と言うものがあり、ことに及んだ時はその家訓に従った。しかし今はその家訓もお飾りとなり「より売り上げを上げること、より利益を上げること。」それが企業のあるべき姿と、誰もがそれはそうだとそれに反論は出来ず、国も又、毎年GDPは成長しなくてはならないと、それが政治家の共通する考えであると。になってしまったような感があり、それ故に間違いも起きる。もう時代を超えるような正義、正しさによって生きる信念のようなものは限りなく無くなって来ている。先週土曜日、NHKでコヘレトについての番組があり、視聴した。コヘレトは言う、すべては「空」だと。なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが全ての労苦も何になろう。時は流れめぐり行く、その前に人間の労苦など何になると。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。…うんぬんと。現代人はその虚しさの中を飛び回って虚しさを忘れようとしているようにさえ思える。何をしても人の一生はわずか、瞬きをする間のようなもの、敦盛も言う「下天は夢か」と。

このような中、どうすればしっかりとした土台の上に立った人生を送れるのだろうか?例えば一つの基準を考える。その基準とは「信念のある人生とない人生」という区別。前述の菜々は信念に従って生きた。情報の蓄積である自我と今の情報に振り回されて生きる人。と言う区別である。一方はしっかりと大地に根を張っており、一方は浮き草のようにふらふらしている。その信念はまた、信仰といっても良いかも知れない。聖書の中で言われています。「わたしの正しい者は、信仰によって生きる。」と。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」ヘブル10:39 。苦しみにも責めにも負けず信仰を貫いた人が神に喜ばれる人だと。それ故に「菜々」は信念を貫き祝福をいただいたと言うことになる。

その信念は時代を超えて正しいものであり、時代を超え人に共感を与えられるものでなくてはならない。そこに自分の力で、学びで辿り着かなければならないとすればこれもまたなかなか難しいことである。そこでその一つに宗教がある。仏教でもキリスト教でも数千年を生き、何億という人に受け入れられて来たもの、そこにもう一度目を向けてみるのはどうであろう?(取り敢えず新興宗教は置いておいて…)私は、あるいはあなたは「信仰によって生きますか?」それとも「今のままその延長で生きますか?」まあ、どうでも良いと言いますかね?。でも、わたしの正しい者は信仰によって生きます。

2020年11月12日 (木)

都会に戻って!

今週月曜日に山里から都会に戻りました。折しもコロナが三たび増加傾向にある中リスクの高い都会に戻り、山里でコロナのことなど気にもせずに暮らしていたところから、いつ自分が感染するかも知れないと言う恐怖を感じながら3日ほどが過ぎます。この間に銀行への手続き、インフルエンザの接種、明日は病院で気管支の経過観察と田舎にいて出来なかったことを次々と消化しています。どこに行っても少しの不安があります。何処でも、そして帰宅してアルコール消毒をします。ああ!田舎がもう少し暖かければこっちに帰る必要も無いのにと思います。まあ、特に都会はコロナを無闇に恐れずに、日常の生活を注意しながらコロナの恐怖を受け入れて行くしかないんでしょうね。これから来年4月までこの怖さと共存して頑張ります。

2020年11月 4日 (水)

残り少なくなりました!

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昨日、名古屋の友人が来てくれて一緒にトラクターの洗車、畑の仕事もすべて終了し、今年のこの山里暮らしもあと僅かになりました。あとは持ち帰る野菜、衣類等の身の回り品、凍結防止対応等を金、土曜日にして身近な人に挨拶回りをすれば終了です。朝は0℃の日々になっており今はコタツに入って目の前の紅葉を眺めながらこの記事を書いています。今年はコロナの影響もあり例年より早く3月20日にこちらに来てから7ヶ月余いつもより長くなりました。あと数日でこの山里ともお別れかと思うと寂しくもあり、しかし寒くてしょうがないしとも感じられ複雑な気持ちです。特にこうして周りの山々の紅葉を眺めながらこの世界に浸っていると一層帰りがたく感じます。こののどかな山村の空気、山々、全ての自然に守られて今日まで来ました。もういく日かでこの山村ともしばらくの別れです。そうそう、今年は遅ればせながらスマホデビューを果たしました。10月、11月初めまでスマホ教室に通い勉強をしています。又、9月には背中のできものが膿を持ち手術になりまだ病院通いです。いろいろありましたが全てを感謝します。感謝の内にあと数日を送りたいと思います。

写真はコタツの中からの今の景色です。

2020年10月31日 (土)

最後の輝き!

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毎朝「0℃」の日々となり、氷点下の朝も明日か明後日かと言う今日この頃、落葉樹の木々も最後の輝きを見せています。家の裏の神社の横の紅葉です。太陽も西に傾き一層「赤」の美しさをきわ立たせています。この静かな山里の短い秋の最後の輝きです。

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2020年10月28日 (水)

時にかなって美しい!

今朝も毎朝の通り山道を1人の礼拝地へ歩く。木々も紅葉が始まり、野菊も可憐に咲いている。この間まで咲いていた夏から秋の初めに咲く花はもう跡形もない。中央アルプスも高いところは冠雪を頂いている。毎朝0℃位に冷え込み霜も降りるようになって来た。そのような状況下、1人、いつもの祈りの道を歩きながら浮かんだ事。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、…。泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時…。愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。…。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」コヘレト3:1〜11ーーー神のなさることはみなその時にかなって美しいーー

時はめぐり、季節はめぐり、その時にかなうものが生まれそして消えてゆく。すべてのものがその定められた定めによって生まれ、消えてゆく。それはみな神様が作られた通り、作り主の栄光を現している。人間もまた大きく見れば同じでありその定めの通り生まれ消えてゆく。ただ小さく見れば日々沢山のことに一喜一憂しながらジタバタして暮らしている。遠く遡ればエデンの園で善悪の知識の木から実を取って食べた時から。と考えながら山道を歩く。1日のうちで最も良い時間です。余談ながらエデンの園での時「命の木」からの実を食べなかったのは幸か不幸か?そしてその木は神様によってその木に至る道を閉ざされてしまうのだが…。

そしてまたこのような言葉が浮かんでくる。「災難に逢う時節には災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」良寛の手紙の一節。

どちらともなにか大きなものにすべてを委ね切るという点において似ていると思います。すべてはみなその時にかなって美しいのだから…。あるがままにある。この全宇宙を経綸なさる方に栄光あれ!全ては御心のままに!

そうこうして1人で決めた見晴らしの良い礼拝の場所に着く。中央アルプスを眺め、駒ヶ根の町を眼下に眺め、周りの木々など全ての自然に、何よりその全てを造られた方に感謝して礼拝し、帰路に着く。

2020年10月27日 (火)

農作業も最終コーナーをまわりました!!

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本日、ヤーコンを掘り、ネギを掘り畑の中の作物は、越冬する玉ねぎを除き終わり。午後からトラクターをかけ、今シーズンの農作業もほぼ終わりとなる。あとは畑の外にある菊芋掘り、11月3日に名古屋から友人が来て玉ねぎの越冬のため籾殻入れをお願いし、一緒にトラクターを洗車、それを持って終了となる。そして私の今シーズンのこの山里での一人暮らしも終わりを迎えます。朝晩は寒くなり特に朝は「0℃」の朝が続き、霜は降りる、車の屋根、フロントガラスは凍り付く。そして間もなく氷点下の朝を迎えるようになります。朝方、布団の中にいても肩口などが寒く感じるようになり、段々年寄りの身に堪えます。都会の生活へ戻りたいと言う気持ちと、去りがたい気持ちが交差しています。

写真、手前のネットはイノシシ、鹿対応のネットです。

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おまけに、どうだんつつじの紅葉です。

2020年10月22日 (木)

ヤーコン、間もなく収穫!

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天然のオリゴ糖、ポリフェノール等たっぷり含んだ健康野菜、ヤーコンの収穫がまもなくです。これから霜が降りると地上部の葉っぱ、茎は一挙に枯れてしまいます。その少し前、或いはその頃が収穫期となります。先日、一本試掘したところもう十分に成長していました。ヤーコンはスーパーなどに出回らないので都会の方はあまりお目にかからないか、この辺の人でも作っている人は少ないです。それでやや馴染みが薄いかも知れません。

しかし健康野菜として豊富な有益な物質を含みほのかな甘みも美味しいです。熱を加えると甘みが増します。それでサラダなどの生食、キンピラなどが好まれます。日持ちもするのでこれから冬の間にいただきます。加えて天然のインシュリンと言われる菊芋の収穫もこれからです。これらが終わると街に帰る時が近づきます。

2020年10月20日 (火)

玉ねぎ植付け完了!

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今朝は朝から玉ねぎ植え、朝一番で苗をいただきに行き、帰ってから植付け開始。赤玉ねぎ100本、普通の玉ねぎ400本、それにスープ用の玉ねぎ、残った苗全部。を昼飯抜きで頑張って13時半頃完了!膝やら腰やら少し痛みますが、今年もこうして無事に玉ねぎの植え付けが完了しました。苗を分けてくださる方、元気に植付けを出来る健康、畑、空気全ての恵みを下さった方に感謝を捧げます。

マルチが掛かっている所が赤玉ねぎと普通の玉ねぎです。掛かっていないで沢山植っているのがスープ用です。スープ用は大きくならないように植える間隔を狭めてギシギシと沢山植えます。そうすると大きくなれずに直径3㎝くらいの小さい玉ねぎができます。玉ねぎは中心部が甘くて美味しいので丸ごとスープなどに入れると最高です。ありがたいことです。感謝‼️