今朝も毎朝の通り山道を1人の礼拝地へ歩く。木々も紅葉が始まり、野菊も可憐に咲いている。この間まで咲いていた夏から秋の初めに咲く花はもう跡形もない。中央アルプスも高いところは冠雪を頂いている。毎朝0℃位に冷え込み霜も降りるようになって来た。そのような状況下、1人、いつもの祈りの道を歩きながら浮かんだ事。
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、…。泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時…。愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。…。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」コヘレト3:1〜11ーーー神のなさることはみなその時にかなって美しいーー
時はめぐり、季節はめぐり、その時にかなうものが生まれそして消えてゆく。すべてのものがその定められた定めによって生まれ、消えてゆく。それはみな神様が作られた通り、作り主の栄光を現している。人間もまた大きく見れば同じでありその定めの通り生まれ消えてゆく。ただ小さく見れば日々沢山のことに一喜一憂しながらジタバタして暮らしている。遠く遡ればエデンの園で善悪の知識の木から実を取って食べた時から。と考えながら山道を歩く。1日のうちで最も良い時間です。余談ながらエデンの園での時「命の木」からの実を食べなかったのは幸か不幸か?そしてその木は神様によってその木に至る道を閉ざされてしまうのだが…。
そしてまたこのような言葉が浮かんでくる。「災難に逢う時節には災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」良寛の手紙の一節。
どちらともなにか大きなものにすべてを委ね切るという点において似ていると思います。すべてはみなその時にかなって美しいのだから…。あるがままにある。この全宇宙を経綸なさる方に栄光あれ!全ては御心のままに!
そうこうして1人で決めた見晴らしの良い礼拝の場所に着く。中央アルプスを眺め、駒ヶ根の町を眼下に眺め、周りの木々など全ての自然に、何よりその全てを造られた方に感謝して礼拝し、帰路に着く。