私の業、私の分。
自分の業(わざ)
「私は見極めた。人は自分の業を楽しむ以外に幸せはないと。それがその人の受ける分なのだから。」コヘレト3:22
コヘレトは言う「空の空、空の空、一切は空である。」と。太陽の元に起こること全てが空であると。人の一生もまた何をやってみたところで空であると。どんなに知識を蓄えてみたところでそれもまた空であると。しかしそれでも人はこの世で生きており、働き、食を得て生きている。そしてその生き方、仕事、暮らしも千差万別である。裕福な人もいる。貧しい人もいる。社長もいる、国会議員もいる。サラリーマンもいる。農家もいる。…。しかしその全ては空である。時が過ぎればもう思い出す人もいないと。時に他人の業を羨み、自分の境遇を嘆く、しかしそれもまたすべては空に帰す。羨まれたその人も裸でこの世を去って行く。資産1兆円の人も裸でこの世を去って行く。嘆いた自分もまた裸でこの世を去って行く。全ては空である。しかしこの世の多くの人は、そもそもこんなことを考えないし、そんな暇もなく日々は忙しく過ぎて行く。更に現代はスマホがあり情報に振り回される。ある意味幸せなことである。しかし、考えざるを得ない人もいる。神が重荷を背負わせた人、そのような分を与えられた人。イエスは言われた。重荷を背負った人は私の元に来るがいい。休ませてあげると。イエスの元に行ったら今の自分の業を嘆くのではなく、自分の業を感謝をして喜ぶ。自分の業の全てを「主、イエスにするように心から行う。」そこにあるのは自分の分であり、喜びである。その様に魂を変えられる。生まれ変わり、立つ位置、視点が変わったのだ。そこでは自分の分を感謝して受け取り、楽しめる。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」ヨハネ3:3
そしてコヘレトは最後に言う。「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて。」コヘレト12:13、と。
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