2021年3月 8日 (月)

薬漬け!

毎日、朝、昼、晩、寝る前と都度4種類の目薬をつける。それに加えて花粉症の薬、気管支拡張症の薬。女房との「クスリ飲んだか?」が決まり文句になる。ボケが始まりつつある私には、つけた目薬をどれをつけて、どれがこれからかわからない時がくる様になるのではないかと心配になる。病院で見たお年寄り達はちゃんと目薬つけているだろうかと人の心配までする。

いわゆる薬漬けの日々であるが、それでもこうして視力が回復して世界を明るく見ることができることに感謝をしよう。聖書に「思い煩うな」とあります。「あなた方のうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。」こんなことも出来ないのに何故あれもこれも思い悩むのか、と。願わくば悟りを得て、晩年を思い煩うことなく穏やかに過ごしたいものです。これぞ「隠居」だね。

2021年3月 4日 (木)

白内障

白内障の手術を左眼、3月1日に受けました。加齢により目のレンズが白く曇っているとのことで、そのレンズの付け替え。続けて3月8日に右眼の予定でしたが、臆病な私はまず左目の手術が終了して安全が確認できてからと言うことで右眼は秋に先延ばし、左目だけ終了した。1日は眼帯を大袈裟なくらいに付けられ一晩、そして2日、朝、病院で眼帯を外していただく。そこで目に入ったものは、明るい世界。世の中はこんなにも明るくハッキリと見えるのか、と驚きました。ほとんど感動と言って良いでしょう。今までそう目は悪く無いだろう、ドックでもここ数年0、7位で、免許証も眼鏡条件が解除されている。と思っていました。昨年夏、目が充血して医者に行った時白内障の進行を抑える目薬を処方されたが目薬終了と同時に点眼も止めてしまってさほど気にもしていなかった。先日のメガネ屋さんで言われてバタバタと手術になったが、手術を受けてみて改めてこんなに白く曇った目で見ていたんだと驚かされる。案外人の見ているものは何が本当の姿、色をしているのか普段疑いもしないが、実はいい加減なものなのかもしれないと思う。でも何よりこの目を獲得できて、改めてこの世の自然の美しさを思う。何という驚きと感謝だ!

一方、病院は年寄りで溢れている。その手術の日も午後からの手術を受ける人が約20人強、これが毎週月、木の午後で手術予定は1ヶ月以上先まで埋まっている。改めてこんなに白内障の老人が多いのかと驚かされる。加齢によるものとのことで、人間年を取るとは厄介なものであると思い知らされる。診察に集まった老人を眺めていると、色々な老人がいる。年を取り各人が各人のままに思い思いそこにいる。一部悲しい思いをしながらその様を見ていると、近年人の平均寿命が毎年伸びて来ており、また経済的にも程々に恵まれている老人が多いが、ただ長生きもどうしたものかとも思えてくる。多少ボケも入って来た今日この頃、女房には耳が遠くなったんじゃ無いのと言われる。人には未来を知る力は与えられていない、死に方もどの様に死ぬかわからない。結局のところ全てを神に任せ、祈って、その上御心に従うしか無いと、大人しい自分に戻って思う!

2021年2月11日 (木)

徒然なるままにー欲望の果て

徒然なるままにー欲望の果て

先日、NHKスペシャル、未来への分岐点を見た。2030年に食糧不足が顕在化して人の存亡に大きな影響を与えることになる分岐点が今だと。そしてこのままの食料システムが続けば2050年には食糧価格は暴騰し食料争奪戦がおきていると。食料が高騰しても金持ちは今まで通り購入できるが一般の人々は購入に苦労して貧しい食生活に陥る。人口増、飽食、無駄な廃棄、農作地の衰退、環境問題等によるもの。四、五十年も昔「成長の限界」と言う本を読んで大きな衝撃を受けた事を覚えている。今、山里での出来るだけの自給自足をし昔ながらの作物作り(刈草を堆肥に積み、化学肥料を少量に抑える)をするのも、この本の影響を受けているかと思う。しかしそれらの事象をよく見ていくとその本質的な問題点として「人間の欲望」にたどり着く。また、企業は増収増益を最大目標として個人の消費を煽るコマーシャルを流し続ける。その意味では2030年の分岐点はこの地球上で人間が幅を利かせて暮らしている以上必然的に起こることかと思われる。先進国では少子化とか言われているが、地球全体では人口は増え続けている。何十年か前に人口50億と言われていたがもう75億を越え、2050年には100億と推測されている。一方、人の食への欲望は止まるところを知らず、もっと美味しい肉を魚を、野菜をと、そして消費期限を定めその時がくれば廃棄する。勿論そのコストも売価に含まれる。一方途上国では食べる物に困り子供が死んで行く。農家も少しでも多く生産し売上を増やそうと化学肥料を大量に使う、短期的には生産が増えても土地は痩せていきやがて生産量も減少する。また人は快適に過ごそうとの欲も尽きない、それらの全てが環境問題につながり、地球の砂漠化へと進む。大量消費、経済最優先の世界だ。人類は地球に養われて繁栄して来た。全てのベースは地球にある。しかし人類の欲によってその地球は壊されていく。禅語に「吾唯足知」と言う言葉がある。また聖書にも「今あるもので満足しなさい」と言う言葉がある。人類が、と言うよりも先進国の人々が欲望の追求を止め、足(たる)を知って生きる暮らしをするだけで2050年の地球を救えるのだろうが、これが不可能な程に難しい。人はこの世の暮らし方に慣れきって麻痺してる。先進国は自国の豊かさを最重点にしている。恥ずかしくも無く○○ファーストと言い、自分達が良ければそれで良いと。それを変えることは麻薬をやめるくらい難しいみたいだ。「成長の限界」は1972年の本である。それ程の昔に警鐘を鳴らしていたが人は止まらない。確か数十年前にアメリカのゴア元副大統領が環境問題の映画を作ったか。せめて目を覚ました人だけでも、自分の欲望を制御して暮らしたい。そう思わされた番組でした。

2021年2月 7日 (日)

徒然なるがままにー加齢ー

最近何かと「加齢」と言う言葉に会う。先日の脳ドック、指摘された箇所は「まあ、加齢ですから…」そして5日のメガネストア「加齢が進んで目に問題がありレンズを変えても視力は上がりません。眼科で診てもらってください」そして眼科「加齢で白内障が進んでいます。手術した方が良いでしょう。」と言った具合。生あるものには死があり、生まれたその日から死に向かって1日1日と歩んで行く。体が成長しやがてピークを迎え今度は老いへの下り坂を進む。これはまさに生あるものの「定め」と言うべきもの。その様な事を実感する日々である。もっとも体はそんな訳で日々衰えていきますが、内なる新しい人は日々成長して衰えることを知りません。聖書に「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」コリII 4:16。とあります。ですから、体の衰えに憂えることなく、日々「霊の」「魂の」成長に邁進しようではありませんか!聖書は続いて「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」とあり、さらに続けて「目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するから」と続きます。

70歳の老体の衰えを憂うより、日々霊の成長に目を注ぎこの世での戦いに勝利出来る様に邁進しましょう。そして金メダルを手に入れるのです。老害では無く、霊の成熟した老人になりたいものです!勿論この世が与えてくれる様な金メダルではなく、神からの「良くやった、良い僕だ」と祝福される金メダルです。

2021年2月 3日 (水)

徒然なるがままに!

煩悩具足の人間ーこのどうにもならないもの!

人は五感から入る情報によって、状況が満たされれば悪にも善にもなる者。心に映った情報に振り回されて自分の力では制御出来ずに引かれて行く、無力にも引かれていく弱いもの。どう反応するかはそれぞれの人の心に蓄積された縁(経験的自我とでも言うか、しかも自分でコントロールしてできたものでは無い、どうにもならない縁)による。いずれの行を持ってしても克服できない縁の力であり、我が身は及び難き身である。ある状況に会えばどんなに普段いい人だと言われる人も悪を犯す。逆に善も行う。それを自分の力ではコントロールできない。主体性を持って自分の日々をコントロールしているように思っていても全て情報に振り回されて生きておりいわゆる「迷える子羊」である。人間とはそのような頼りないものである。

そのように自分を見つめてみると自分は一生煩悩具足の愚か者、愚禿である。どうにも救われない愚か者である。いずれの行も及び難い無力の人間である。そしてこれらの情報、自分の思考は全て見えざる大きなもの、全宇宙を経綸する意思(力を備えた精神的エネルギーと私は感じる=神)とでも言うものに(神、阿弥陀様)支配されている。と、考えるとこの無力な私に出来ることは「祈る」ことだけ、せめて罪を犯さなくて良いようにその見えざる力に祈りお願いすること。

しかしその祈りは応えられるか否かはその力()の意思、計画による。それ故に神に祈り、お願いし、あとは御心にただ従うしか無い。例えそれがこの世的に良いことであろうと、災であろうと。従うしか無いと言うよりもむしろ否応無く従わされる。とでも言った方が良いか?自分の祈りを超えた神の計画があり、その計画が優先されるのだから。だとすれば無力を嘆くより、ただへり下り、自分を全て神に放り投げ、委ね切って後はただお任せする。私に出来ることはただ全能の神に祈る事だけである。でもその力である神は私を愛していてくださるのだから、どのようなことになろうと、それは神様から見て私には良いことなのだろうと、おおらかに安心して暮らす。ただ信心を要とすと。ただ信仰を持って祈り、神にお委ねし、全ては御心のままにと静かに受けいるてゆく、心騒がせずに。それが人の一生。その様な中にあっても、願わくば「隣人を愛することが出来ますように」と祈る。でもその先には天の国が(あるいは浄土)がある。神はそこに受け入れてくださる。約束してくれている。そして人はそこで永遠の命をいただく。

日常の中で聖なるものになろうと努力はする。しかし肉に住む間、完全に聖なるものになることはあり得ないので濁なる事をしても落胆することなく祈る。山の(人生の)暮れに徒然なるがままに思う。老人我一人。

2021年2月 1日 (月)

脳ドック!

今日は5年ぶりに脳ドックを受けて来た。超伝導MRIとか言う装置で受けるのだが、どうもあの狭い筒の様な中に頭を入れるのはちょっと不安になる。閉所恐怖症と言うやつですかな?本番になればまあ何とか耐えられるが、その前にあの狭い中に入っている事を想像すると怖くなる。しかも時間が15分くらいかかる。工事現場の音の様なガンガンと言う音を聞きながら入っている。むしろその音さえ変化があって助かるくらいだ。そして結果発表!「まあ特に問題はないでしょう!一部にあるこの白い部分は加齢とともに仕方ないでしょう。また、5年後に検診を受けてください。」ほっとするが、最近はこの「加齢による…」がつくことが多くなった。まあ字の如し、歳をとっていけば体も徐々に衰え、体のあちらこちらに劣化が見られると言うことで仕方のないことでしょう。山里で農作業をして作物を育てていると、それぞれに芽が出て、青々と成長する。しかしよくしたもので時がくれば、葉が枯れて来て寿命を迎える。人間もそれと同じだな、と思う。生まれ、成長し、やがて老いていく。あまりいつまでも何処にも衰えが無く元気なのも人類にとっては迷惑な話だ。生まれるに時があり、死ぬるにも時がある。神のなさることは皆時にかなって美しい!静かにその摂理に従うことこそ善き老境というものかな。

2021年1月30日 (土)

見えるものではなく…。

「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」コリニ4:18

人は皆、見えるものに目を注いで日々を生きています。そして見えるものを信じている様に思われます。なぜなら見えるものは今実存として「其処にある」からです。そして次々に映る見えるものに移り行きして、その中で生きて振り回されています。しかし目に見えるものはやがて過ぎ去ります。人間もやがて死にこの世から退場します。また形あるものはやがて壊れます。人の心もその目に見えるものによって影響を受け、移り行く。しかし、目に見えないものは過ぎ行かない。なぜなら形も姿もないから。しかし形がない故に人はまたそれを信じることが難しい。しかし信じた者にはそれは永遠に存続する。目に見えないものとは真理と言われるもの。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ヘブル11:1 信仰とは目に見えない事柄を確信し信じ抜く事です。それ故、信じた人にはそれは永遠に存続する確信である。見えないが故に困難であるが、見えないが故に信じた人にとって確実、絶対である。時に人は例えば男と女とか、白人と有色人種とか色々に区別される。目に見えないので分かりずらいが、信仰のある人と信仰のない人と言うのも大きな根本的な違いである。この豊かな現代にあって信仰などと言うものは無用なものであり少数民族かもしれない。しかし、わたしの正しい者は信仰によって生きる。などと徒然なるがままに山の暮れに思う。

2021年1月27日 (水)

老いを感じて!(2)

ある本にこんなことが書かれていました。人はこの世に外交官としてやって来る。つまり母国からこの国へ派遣されると言うわけです。外交官ですからやがて必ず母国へ戻らなくてはなりません。派遣されたこの国で外交官は、この国の言葉を習得し、この国の文化、歴史、食べ物、遊び、楽しみ等を学びながら母国のためにその任務を遂行します。この国の人々と交わり友好に努めながら、自分の家族の生活を築きます。ただ一つ、この国に浸り切ってはいけません。何故ならいずれ母国に戻らなければならないからです。この国での生活が楽しければ楽しいほど、この国に執着して母国へ戻る発令が来るのを恐れます。しかしどんなに恐れてもその発令は必ず来ます。この国での正しい過ごし方は、この国に浸り過ぎない様に、そして自分は外交官であること、いずれ母国に戻ることは確実であり、母国から外交官として、良くやったと言う評価を受けられる様に働き、そして次の発令を待つと言うことでしょうか。私も転勤族で、大体3〜4年で転勤を経験しました。転勤先で3〜4年の勤務期間が流れると、そろそろ自分も転勤かもしれないと思い、少しそわそわしたものです。しかし、私の勤めた会社の発令は必ず突然発令されるもので、その日までは全くいつ来るか分かりません。ただ多くの仲間の一般的な異動サイクルからそろそろだな、と勝手に思うものでした。その様に母国への帰還命令は、突然やって来るのでしょう!

こんな事を思い巡らしながら、確かに人は皆、外交官が異動で来る様にこの国に来るんだな、と思わせられました。ただ、外交官ですから、受けるのは「母国」での評価であって、この国での評価ではありません。この国で生活しながらもやがて来るその日に、母国の人事から「良くやった、良い僕だ。さあともに喜んでくれ」と言っていただける様な日々を送りたいと思いました。

2021年1月26日 (火)

老いを感じて!

今日、車を運転していて急にこの車の名称はなんて言ったか?と思いはじめた。ところがこの名称がなかなか出てこない。20分くらい運転しながら考えたが結局思い出せず、着いて車を止め確認して、なんだ、そうだよ、知っていたのに…。こんなことが時々起こる。認知症?いわゆるボケ?これ以外にも何かをする時、今までだったらしないようなミスをして、ああ、自分も老いたなと思うことがたびたび起こる様になった。また、耳も少し遠くなって来たかもしれない。人の話を「なに?」と聞き返すことが気持ち増えた様に感じる。体は毎日ウオーキングなどして元気であるが、色々な場面で老いを感じる今日この頃である。この老いがどんどん進んでいって、その時尚、もっと生きていたいと思うのだろうか?神様は人間を上手に造ってくださったのだろう。若い時は、今死にたくは無いと思い、しかし生あるものは必ず死ぬわけで、死を考えることはそれが苦しみであり、死にたく無いと思うわけである。しかし、歳を取り、老いを感じる様になり、自分でも老いることの実態を少しずつ知るにつけ、まあ、そうあとあまり長く生きなくてもいいなと思うようになる。神様は老いること、生きとし生きるものには終わりがある事を、少しずつ実感として教えてくださる。それらを受け入れながら静かに時を重ねて行きたいと思う。ブログのタイトルを考えた時、山の暮れと人生の暮れを重ね合わせて山の暮れと付けたが、その暮れを時々感じる今日この頃である。

2021年1月12日 (火)

この水を飲む者は…。

この水を飲む者はだれでもまた渇く。ヨハネ4:13

この言葉は聖書に出てくる有名なイエスの言葉。井戸に水を汲みに来た女にイエスが語った言葉。人は皆渇きを癒そうと水を飲む、水が無くては生きていけない。しかし人が求めて飲む水は一時の癒しに過ぎずまた次の癒しを求める。これは比喩的な話で、例えば人は楽しみを求めて旅行に出かける。買い物に出かける。仲間とのおしゃべりに出かける。趣味に出かける。恋人に会いに出かける。…etc。しかしこれらは一時の癒しに過ぎない。一時の楽しみである。終わって少し経てばまた次の楽しみを求め彷徨う。また世は次々と新たな楽しみを提案して誘なう。そして人はそれに誘われて入って行く。しかしまた永続性のある癒しには至らない。この繰り返しがこの世であり、経済中心の世である。

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。ヨハネ4:14

しかし神から与えられる水、楽しみは永続性がありもはや渇くことなく次々に楽しみを求めて彷徨うことは無くなる。神から与えられる水とは何か?一言で言えば「聖霊」もう少し狭く言えば御言葉、御言葉によって心のうちに宿る喜び、御言葉により人の心が造り替えられ精神的な喜びに溢れる様になる。それは心が造り替えられたことであり、もはや次々に楽しみを外に求める必要はなく、その心に居ることが喜びとなる。しかしこの心境に至るにはこの世の生活に、この世の君の教育に慣れた人には容易では無いと思われる。何よりもまず目を覚ます必要があるが、その目を覚ます機会があるだろうか?生まれた時からずっとこの世の君の教育に染まっている身にはその機会が与えられるのは稀なこと、この世の君は、人々にほどほどの楽しみを与え、自分から逃れない様に飼い慣らしている。人はそのぬるま湯にいつも浸かっていたいと慣らされている。それ故に神の選び、恵みが無くてはその目を覚ます機会さえ与えられないかと…。でもこの世の君の教えに慣れず、もっと絶対的な喜びを求めて彷徨い歩く者、大きな悲しみで心を打ち砕かれた人、いわゆる貧しい者にはきっと神がささやきかけてくれる。いつも戸を叩いていると。こちらに来なさい。休ませてあげると。そして神からの水をいただく。願わくば恵みにより霊の国で憩うことが出来ますように!