« 脳ドック! | メイン | 徒然なるがままにー加齢ー »

2021年2月 3日 (水)

徒然なるがままに!

煩悩具足の人間ーこのどうにもならないもの!

人は五感から入る情報によって、状況が満たされれば悪にも善にもなる者。心に映った情報に振り回されて自分の力では制御出来ずに引かれて行く、無力にも引かれていく弱いもの。どう反応するかはそれぞれの人の心に蓄積された縁(経験的自我とでも言うか、しかも自分でコントロールしてできたものでは無い、どうにもならない縁)による。いずれの行を持ってしても克服できない縁の力であり、我が身は及び難き身である。ある状況に会えばどんなに普段いい人だと言われる人も悪を犯す。逆に善も行う。それを自分の力ではコントロールできない。主体性を持って自分の日々をコントロールしているように思っていても全て情報に振り回されて生きておりいわゆる「迷える子羊」である。人間とはそのような頼りないものである。

そのように自分を見つめてみると自分は一生煩悩具足の愚か者、愚禿である。どうにも救われない愚か者である。いずれの行も及び難い無力の人間である。そしてこれらの情報、自分の思考は全て見えざる大きなもの、全宇宙を経綸する意思(力を備えた精神的エネルギーと私は感じる=神)とでも言うものに(神、阿弥陀様)支配されている。と、考えるとこの無力な私に出来ることは「祈る」ことだけ、せめて罪を犯さなくて良いようにその見えざる力に祈りお願いすること。

しかしその祈りは応えられるか否かはその力()の意思、計画による。それ故に神に祈り、お願いし、あとは御心にただ従うしか無い。例えそれがこの世的に良いことであろうと、災であろうと。従うしか無いと言うよりもむしろ否応無く従わされる。とでも言った方が良いか?自分の祈りを超えた神の計画があり、その計画が優先されるのだから。だとすれば無力を嘆くより、ただへり下り、自分を全て神に放り投げ、委ね切って後はただお任せする。私に出来ることはただ全能の神に祈る事だけである。でもその力である神は私を愛していてくださるのだから、どのようなことになろうと、それは神様から見て私には良いことなのだろうと、おおらかに安心して暮らす。ただ信心を要とすと。ただ信仰を持って祈り、神にお委ねし、全ては御心のままにと静かに受けいるてゆく、心騒がせずに。それが人の一生。その様な中にあっても、願わくば「隣人を愛することが出来ますように」と祈る。でもその先には天の国が(あるいは浄土)がある。神はそこに受け入れてくださる。約束してくれている。そして人はそこで永遠の命をいただく。

日常の中で聖なるものになろうと努力はする。しかし肉に住む間、完全に聖なるものになることはあり得ないので濁なる事をしても落胆することなく祈る。山の(人生の)暮れに徒然なるがままに思う。老人我一人。

コメント

コメントを投稿