2023年9月23日 (土)

芭蕉

いつもの祈りの道をウオーキングしながらこんなことを考えた。徒然なるままに…。

芭蕉の有名な句をいくつか思い出してみる。「荒海や佐渡によこたふ天河」「さみだれをあつめて早し最上川」「古池や蛙飛こむ水のおと」いずれも、ただあるがままをうたった句だと思う。ただ凡人にはあるがままを書けと言ってもこのようには表現できない。このような句になるまでには芭蕉も推敲を重ねて納得する姿がこのような句として表現されているのだろう。確か芭蕉はこんなことも言っていたか。自分の句はただの一首も辞世の句で無いものはないと。俳人として研ぎ澄まされた状況での句はどの句もこの世での最後の句の思いで作られており、それはまた芥川の言う「末期の目」に映る世界が句として残されており、それ故それは永遠性を持った世界が表現されているのだろう。そしてそれはまた道元の言う「本来の面目」でもあるのだろう。道元のその本来の面目と題された句は「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」というもので、これもあるがままを詩いそれが永遠にまで高められているように思われる。ただそれぞれのものが神が作られた被造物として本来のあるがままにそこにある。そしてあるがまま、恣意が全く入らずそこにあることによって造り主の栄光を表している。そしてそのままに人間の煩悩、心に染みついたかさぶたを綺麗に洗い流したピカピカの心の鏡に映ったものを句として残したのだろう。その意味でも旅は心にこびりついた垢を削ぎ落とす、そしてピカピカの心を取り戻す作業でもあったのだろう。

それは般若心経「色即是空 空即是色」「是諸法空相」につながるようにも思われる。全てのものは空であると言い、そしてその境地で見ればそれゆえ全てのものがただそこにある。しかしそれは人々が忙しく生活する中で、心が忙しく飛び回っている中で見る、そこにあるものではなく、末期の透徹した目で見たそのものがそこにあると言うものか?

年老いてこの世の生活も残り僅かになってきた。この世に来る前に居た国へ帰る日も近づいている。せめて心から余分な不純物を少しでも取り除き、ピカピカの心でこの世にありながら末期の目で世を見ていきたい。その目にこの世は素晴らしく美しく映ることだろう。

2023年9月21日 (木)

むなしい!

昨日は一年に一回の兄弟会ゴルフ、終了後は三男宅で懇親会。他人は仲の良い兄弟で良いね👍、と言ってくれる。確かに深いところでは一致はなくても表面的にはお互い妥協しあってほどほど仲の良い兄弟かと思われる。そして概ね健康で一年に一回、兄弟でゴルフ、ありがたいことである。三人兄弟の長男が私、次男が家は継いで大工、三男はメガネ貴金属店の会長、社会的には概ね成功した部類に入る兄弟かと思われる。加えてゲストに地元の先輩の4人。ゴルフはショットが安定せずラウンド中の修正も出来ず散々な出来。懇親会、こんな時はいつも私はあまり口を出さないようにしている、それは話題が大体地元の世間話、ゴルフの話、こんな時は次男の声が大きく、わたしが同調できなくて発言しても次男の声が大きくなるばかりだし、言い合ってみてもほとんど意味がないと思っているから。ところが今夜は何かの話題をきっかけに仏教の話になる。菩提寺は曹洞宗のお寺であり道元の話、法句経の話、ブッダのこと、そこから俳句の話など…。どちらかと言えば自分が学んでいる世界のことで、口数が多くなる、また話の展開から自分の主張に自信を持って自己主張を始める。やがてお開き、どこかで自分の学んだ知識を見せびらかすような嫌な自分を見、喋りすぎた自分に嫌悪感、いくら発言してみても酒の席、お互いその話から得るものは何もないまま忘れるのだろう。結局虚しさだけが残る。この何年間か滅多にはないことだが、このように多く喋ったあとはいつも虚しさだけが残る。自分の口を制することの出来なかった自分に対する嫌悪感と共に。70代にも達した人は良くも悪くも一家言を持ち、その自分の考えに人の意見など入り込む隙はなく、単なる酒席のつまみにしかならない。特にこのような問題、項目は1人自分の内面と向き合い、深めて行くことではないだろうか?確かに独りよがりになる危険性はあるが、もう残りの人生わずか、ただ自分の内面を深く深く掘り下げていきたい。こんなことを酒席で発言してもむなしいだけ。むなしい、早く家に帰って1人になりたい。改めてそんなことを実感した懇親会の夜だった。

2023年9月12日 (火)

でんでん虫

今朝いつものウオーキングロードを歩いていたら、長さ10数cmのでんでん虫に会いました。道路をどこへ向かっているのか分かっているのかゆっくりゆっくり進んでました。そういえば小さい頃♬でんでん虫虫カタツムリ🐌お前のあたまはどこにある…♬なんて歌を歌ったな、と懐かしく思い出しました。しかし今の小さな子供はこんな歌習うんだろうか?と、ふと疑問に思いました。そもそも都会の子供はでんでん虫なんか見ることがあるのだろうか?もしみる機会がなければこんな歌歌っても、♬槍だせ、つの出せ…♬なんて実感湧かないよな、と思いました。この山里暮らしでも本当にたまたましかお目にかからないので…。それでどうなんだ?と言われたら、まあどうと言うことも無いんだけど…。そんな今朝の祈りの道、ウオーキングロードでの出会いでした。

2023年9月 9日 (土)

図書館

図書館へ本を借りに行く。前にブログしたように私の本棚には、わずかな本を残し図書館に本は全て寄贈してしまったので、たまに読みたい本は図書館に借りに行く。先日法然についての本を読んだので今度は親鸞についての本を読みたいなと思い行く。館内に入ったら、シニアコーナーなる所が設けられていた。そこでこの老人興味を抱きサッと展示された本を見てみる。そしてその中から「老人の美学」と「わたしの芭蕉」と言う本を借りた。勿論加えて親鸞の本も。

早速老人の美学を開いてみる。全く面白くない。興味も引かない。大学教授の定年後だのスターの引退後だの上っ面な話と、この世の圧倒的に多くのサラリーマンの定年後の美学につながらない話で途中まで読んでギブアップ。「老人の美学」と銘打っているなら、私としてはこの多くのサラリーマン退職後の生き方の美学に触れてほしい。この大多数の老人の暮らし方、あるいは内面の問題に触れて、これだったら俺も、私も意思あれば取り組んでいける。そしてそんな風に美しく生きて、あるいは美しい晩年を求め続けてその途中でこの世とおさらばする、そんな内容がありがたかった。しかもこれ新潮社から出ている。

一方、わたしの芭蕉を少し読み始めてみる。こちらは小生の偏見かも知れないが、やはり「加賀 乙彦」もう引き込まれて行く。勿論、芭蕉の生き方には私も大変引かれており、この山里暮らしの根底にも芭蕉につながるものがあってのことでもある。また今までにも芭蕉の本、句には惹かれるものがあり、以前ブログにも芭蕉の句について記述したことも有る。これは幾日か読書に集中できそうだ。老人の精神生活に心に響く本とのひと時は内面の至福のひと時である。

もう一冊、信の人親鸞について学びたい。この4、5年「信じる」と言うことを、おりに触れ考え、学ぶ。この自我に凝り固まったわたしが信じ切る。愚直親鸞、法然も自分は愚か者だと言う。わたしももっと愚か者になりたいと思う。

老年になり尚読書が出来る。幸せなことだ!いつ来るか分からないその日まで、自分よ、出来ればボケないで欲しい。そして内面の美しさを求め続けて欲しい。

2023年9月 3日 (日)

老いを受け入れて。

今年はこちらの山里に来てから朝方足が攣る。自分で「魔の3時」と呼ぶようになったが、朝方3時頃になると必ずと言うほど足が攣る。痛い、痛い。起きて寝ぼけながらテーブルのまわりを歩き回りながら足の筋肉をほぐす。治るまでに5分くらいかかる。これが毎朝である。寝不足になる。なかなか辛いものである。まず寝る前にまた明日の朝方足が攣るのかと不安を抱え横になる、そして案の定、足が攣る。時計を見るとやはり3時頃。さすがに毎日は堪える。医者に行く。こむら返り、攣りの原因は色々あり特定しにくい、とりあえず薬を出しましょう。と漢方薬をもらう。この薬がまた品薄らしく多くは出せないと。世の中にはそんなに攣る人がいるのか…。3時頃予兆がして起きて薬を飲む。治って寝るが今度は4時頃足が攣る。如何ともどうにもならない😢。人の話では水分が不足しているのではないか、と言う。今まで以上に水を飲む。スポーツ飲料がいいからと言われ、ポカリスウェットを毎日飲む。これが3ヶ月、4ヶ月と続く。血流が悪いからとウオーキング、ストレッチを増やしてみる。少し軽くなったような気がするか…。

しかし良くしたものだ。4ヶ月、5ヶ月と続くとだんだんドタバタしなくなる。ストレスでは無くなる。「忍耐は練達を」と言うことか。もはや諦めて、受け入れる。むしろこのような状態になった時忍耐する力を下さいと祈り、受け入れることを考える。良くしたもので、そうなるとあまり不安、心配でも無くなる。攣ることを受け入れ、歳を取ればこんなものだと、普通に対応する。医者もいいか!行っても同じことだ。と行かなくなる。

これから更に歳を取っていき、こんなことがあれこれ起こるようなことになるのだろう。益々不自由なことが多くなっていくのだろう。人が老いるということはそう言うことなんだろう。しかしそれにいちいち心を騒がせドタバタと対応するのではなく、全てを「受け入れる」ことを、それも慌てず騒がず心静かに「受け入れる」ことを学んでいくのが「老いる」と言うことの学びなのではないか。少しかっこ良く言えば「達観」と言うことか。それが「私の願いではなく、御心のままに行ってください」と言う祈りになっていくのだろう。そしてそれが何であれ喜んで御心に従えるような心境にまで至れば本当の「平安」が訪れるのかも知れない。きっと物静かな美しい老人なんだろう。そんな老人になりたいものだ。神よ、どうかその日までお導きください。

2023年9月 2日 (土)

人は成熟するに従って若くなる。

久し振りにヘルマンヘッセの掲題のエッセイ、詩の本を読んでみた。ヘッセは一時その作品に同感して多くの作品を読んだ作家である。彼も晩年はスイスの山奥の湖畔で1人家庭菜園やら水彩画を描いたり散歩したり、自然の中での生活を何より好み、その意味では私の今の生活もその影響を受けたものとも言える。

人は成熟するに従って、多くのものを手放し、手放した分だけ身も心も軽くなりその分若返ると言うことか?地位も名誉も性欲も財産も仕事も健康も…etc、年を取るにつれ手放していく。するとその分心は軽くなり若々しくなって行く、悪く言えば単純になって行くと言うこと。人は毎日多くのことに心を煩わせながらこの世を生きているが、本当に大事なものはわずかなものであり、そのわずかなものに近づいて行く。そこはいわゆる「平安」の世界。いわゆるパウロの言う、わたしたちの「外なる人」は日々衰えて行くにしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされて行く。と言う言葉に通じるものか。

考えてみれば今年は色々のことがあった。まずは5月の事故、居眠りで車をガードレールにぶつけて自分としてはなんでこんな事がとショックを受けた、おかげで頭のMRI、脳波検査を受けてみたが異常はなく、まあ老化が原因と。この時から耳の聞こえが悪くなったが耳鼻科の医者は老化でしょうと。4月にはサルが椎茸、玉ねぎを食べてしまった。家の前の庭で栽培していた枝豆を猿が来て座って食べている。ジャガイモが大雨で例年の1/3も収穫できなかった。カボチャも夕顔も何故か雌花が少なく従って果実も例年の1/2程度。夏は例年になく暑い。等々例年には無いことが沢山起こりその度に心をざわつかせたが、今ではそれらの日々起こる出来事を俯瞰的に黙ってみていられるようになった。歳をとるとはまた多くのものを諦めて黙って受け入れると言うことでもあるか。

今年の8ヶ月が終わったところで感じるのは「歳をとったなあ」と言うこと。そして色々なことに購ってみても仕方ないよ、心静かに受け入れましょう。と悟った(?)ことです。

2023年8月27日 (日)

岩魚の炊き込みご飯

本当に長らくブログを留守にしていました。五月に居眠りでガードレールに車をぶつける事故を起こし、もしや脳に問題ありや?また耳が聞こえづらくなり、自分の喋る声も変に聞こえたり、それに猿に玉ねぎ食べられたり…etc。色々なことが重なり、結論としては自分が本当に年老いたのだということを実感しました。今までも頭の中では年老いたことを分かってはいましたが、今回は本当に実感しました。それからこの世に起こる全てのことも全ては神の計画であり自分の力ではどうにもならないと無力感も感じました。それらから色々なことをすることが嫌になり何となくブログからも遠ざかりました。

しかし最近やっと色々なものからふっきれて、「神のなさることは、みなその時に適って美しい!」、「万事が益となるように共に働いてくださる」と言われる神に全てを委ね、委ね切った中で身を低くして心静かに日々を過ごしていこうと穏やかな気持ちが戻って来ました。そして昨日やっと、久し振りに渓流釣りに行きました。渓流釣りも事故の不安が付き纏い年老いた感から危険を想像し心配で暫く行ってませんでした。行ってみれば久し振りに川の音に浸り、緑に囲まれて、静けさに浸り、ああ、やっぱり俺はこう言う世界が本当に好きなんだ。と実感しながらの楽しみでした。また沢山の岩魚を恵んでいただきました。神の恵みに感謝します。沢山いただきましたので久し振りに「岩魚の炊き込みご飯」を作ってみました。

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ここでまた老いの悲しさ!本当はほぐす前の岩魚の姿を写真に撮りそれからほぐす予定でしたが、すっかり忘れて、ほぐすのを急いで写真も撮らず仕方なくほぐした後の写真です。これが年老いた悲しさです。でも、そんなことに関係なく岩魚ご飯美味しいです。それは変わりません。

ありがとう!全ての恵みに感謝します。岩魚ご飯食べながら、美味しい、ありがたいな、と感じ入っています。

2023年4月 7日 (金)

蕗のとうの茎で…。

先日蕗のとう味噌を作り、豆腐のトッピングに、ご飯に乗せて、焼きおにぎりに、日本酒のあてにとその独特の苦味、甘味噌のコンビネーションに早春の恵みを楽しみました。しかし流石に花が咲き丈も伸びて今年の蕗味噌は終了かと少し寂しく感じていました。ところが近所の人と立ち話をしている時に花が咲いて伸びてしまったフキのとうも、その茎を使った料理が美味しいと情報をいただき、早速、蕗のとうの茎を取ってきてこれで蕗味噌を作ってみました。この茎はいわゆる通常食べるフキよりは柔らかく、アクも少し少ないらしい。結果は蕗のとう味噌とほとんど遜色ない美味しい蕗味噌ができました。苦味は蕗のとうよりは少し少ない感じ。それに茎の食感が良い。蕗のとうは早春のいっ時の山菜で短時間で終わっってしまうが、この茎を使うことを知り少し長い期間蕗味噌を楽しむことができることが分かりました。山里の自然の恵みに感謝です♪。合わせて調理は人によって色々なバリエーションがあることを知りました。

2023年4月 4日 (火)

渓流釣り

まだ農作業が始まらないので本日も渓流釣り、先日作った燻製が大変美味しいので、願わくばまた燻製用のサイズが釣れますようにと出発。8時過ぎの出発で渓流釣りには遅い出発だがこの時期まだ朝は氷点下の日々であり少し水温が上がってからの方が良いかと遅めに出た。9時頃から釣り開始、まだ人があまり入っていないのか結構当たりがくる。最初の1匹はやはり嬉しい。それも燻製適したサイズだ!その後も引きは結構あり12時頃までで合計16匹の釣果があった。そのうち燻製サイズも6匹確保、塩焼きに4匹、6匹をお世話になっている方に。自然の恵みに感謝!

帰って早速燻製の塩漬けをし遅い昼食をいただく。今までだとここで満足感のビールと言うところだが、血圧が高いので自制、夕飯に取っておく。前にも書いたが「北の国から」の「遺言」に五郎の遺言に出てくる「自然は人が生きていけるだけのものは与えてくれる。」と言う言葉を思い出し、そしてそのように自然を造られた方に感謝する一日です。

2023年4月 3日 (月)

山里入村

久しぶりのブログとなりました。3月27日に山里に帰ってきました。今年は暖かく里の桜は満開です。が、この山里は蕾が少し赤くなり始めたところでやはり里より気温もかなり低いです。それでも家の枝垂れ桜が例年4月23日頃のことを考えるとやはり例年より早いようです。

戻ったと言っても農作業もまだ特にすることもなく、玉ねぎの草取りをして、サラダレタス、ラディッシュ、春菊の種蒔きをハウスの中で行いました。後は暇につき早速渓流に様子を見に出かけました。お陰様で初日岩魚6匹、翌日9匹、更に3回目3匹と恵まれ、早速塩焼き、燻製をさせていただきました。都会に比べ山里には遊べるフィールドがありこまめに動いてます。ただ花粉症が都会では終わりに近づいたのにこちらは真っ盛りとこの点は困ります。

それから蕗のとうがもう遅いかと思って来ましたが、まだ少し花が咲かないで出ており、蕗のとう味噌を作りました。豆腐のトッピングにたくさん乗っけていただきました。蕗のとうの苦味と甘味噌が相まって大変美味しい春の味となりました。自然の巡り、恵みに感謝です。

こうして今年の山里暮らしが始まりました。年もとって記憶力やら血圧やら問題も出始め、後何年山里での暮らしが出来ることか分かりませんが自然と一つになり全てを神に任せて心安らかに山里での日々を送りたいと思います。今日の今に感謝❣️。