芭蕉
いつもの祈りの道をウオーキングしながらこんなことを考えた。徒然なるままに…。
芭蕉の有名な句をいくつか思い出してみる。「荒海や佐渡によこたふ天河」「さみだれをあつめて早し最上川」「古池や蛙飛こむ水のおと」いずれも、ただあるがままをうたった句だと思う。ただ凡人にはあるがままを書けと言ってもこのようには表現できない。このような句になるまでには芭蕉も推敲を重ねて納得する姿がこのような句として表現されているのだろう。確か芭蕉はこんなことも言っていたか。自分の句はただの一首も辞世の句で無いものはないと。俳人として研ぎ澄まされた状況での句はどの句もこの世での最後の句の思いで作られており、それはまた芥川の言う「末期の目」に映る世界が句として残されており、それ故それは永遠性を持った世界が表現されているのだろう。そしてそれはまた道元の言う「本来の面目」でもあるのだろう。道元のその本来の面目と題された句は「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」というもので、これもあるがままを詩いそれが永遠にまで高められているように思われる。ただそれぞれのものが神が作られた被造物として本来のあるがままにそこにある。そしてあるがまま、恣意が全く入らずそこにあることによって造り主の栄光を表している。そしてそのままに人間の煩悩、心に染みついたかさぶたを綺麗に洗い流したピカピカの心の鏡に映ったものを句として残したのだろう。その意味でも旅は心にこびりついた垢を削ぎ落とす、そしてピカピカの心を取り戻す作業でもあったのだろう。
それは般若心経「色即是空 空即是色」「是諸法空相」につながるようにも思われる。全てのものは空であると言い、そしてその境地で見ればそれゆえ全てのものがただそこにある。しかしそれは人々が忙しく生活する中で、心が忙しく飛び回っている中で見る、そこにあるものではなく、末期の透徹した目で見たそのものがそこにあると言うものか?
年老いてこの世の生活も残り僅かになってきた。この世に来る前に居た国へ帰る日も近づいている。せめて心から余分な不純物を少しでも取り除き、ピカピカの心でこの世にありながら末期の目で世を見ていきたい。その目にこの世は素晴らしく美しく映ることだろう。
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