2023年2月24日 (金)

ゴルフスクール最終日!

昨年11月、人生初めてのゴルフスクールに入学し4ヶ月レッスンに通いました。最初はコーチの指摘、指導に自分の今までの考えが、スイングがボロボロになり、頭の中はパニック状態。ショットもガタガタ。それでも上級者であるコーチに従うしかないと悪戦苦闘でスクールを続けて来た。そして振り返れば4か月が過ぎ、今日が最終日となりました。この4ヶ月何していたんだ、全然上達してないじゃないかと思うこともありましたが、本日の卒業式、アイアンショットのインパクトが安定、飛距離、方向も安定してきました。打感も気持ちよくスイングが心地良くなりました。ドライバーも安定して200yd以上が出るようになりました。練習場のボールはコースでの使用球より飛距離が10〜20%位落ちるとのことであり、コースに出れば220〜230ydは飛んでいるかと。入学前はせいぜい200yd位でしたから飛距離も伸びたと。70歳過ぎの老人のゴルフとしてはまずまずではないかと満足できます。一方、もっと若い時に指導を受けていたらと残念でもあります。ともあれ冬の間の都会での暇つぶしとしては有意義なゴルフスクールでした。ご指導いただきましたコーチの皆さんありがとうございました。golf🏌🏻😄。

2023年2月 9日 (木)

3ヶ月ぶりのゴルフ

6日、3ヶ月ぶりにゴルフに行ってきました。スクールでの練習は2ヶ月が経ったが成長したか否か定かでは無い。それでも久しぶりに誘っていただき喜んで紫カントリーへ馳せ参じた。スタート時間が早いので家を暗いうちに出発こんな時間からゴルフに行くのか?という感じ。

スクールでは随分打ち込んだが、なんと言って3ヶ月ぶりのゴルフ、ティショットは緊張する。案の定、シャンク気味に隣のホールへ、そこから戻そうと2打目、林を越えられず3打目でコースに戻す。4オンして2パット、いきなりダボのスタート。次のホール、ティショット、またシャンク気味に大きく右へ、またダボ。だめだ、久しぶりでドライバーが全然当たらない。5ホールまでダボの連続、6ホール目からやっと当たり出してボギーベースに戻し、最終ホールはパー、結局48回でホールアウト。

しかし後半は大分感覚が戻りティショットも距離が出るようになる。練習の成果が出てきたか、と内心喜ぶ。アイアンも左右のブレが若干あるが良い当たりが出てくる、結果スコアも向上、後半は43回と改善してホールアウトしました。

スクールであれこれ教えられるほどに頭の中はごちゃごちゃになって悩んでいたが実践してみるとスコアは別にしてもショットはかなり向上したように思われる。何より飛距離が伸びた。打感がよく気持ち良いショットが数多く出るようになった。今年の冬も例年通り打ちっ放しの練習場に通って自己流の練習を続けていたらこの向上はなかっただろう。思い切って73才の手習とスクールに入ってよかった、願わくばもっと若いうちにキチンとスクールで教えてもらうべきだった。と反省しても後の祭り。一緒に20歳の大学生の男の子が回ったが恐るべき飛距離、若者が眩しいくらいだった。

3ヶ月ぶりのゴルフ楽しかった。風もなく晴れて暖かく途中からはセーターも要らなかった。素晴らしい天気、素晴らしいゴルフ仲間を与えていただき、何より70を過ぎてこうして元気にゴルフができる恵みを与えてくれた神に感謝する1日となりました。感謝!

2023年1月16日 (月)

ポツンと一軒家

テレビでポツンと一軒家と言う番組を見た。大分の山間部の茅葺の築155年の古民家をリノベーションして暮らす50代の夫婦の生活をレポートしていた。素晴らしい夫婦で旦那さんは3dプリンターで家を作る会社を経営していて、この工法だと随分安く家が建てられ、多くの人の家を取得する負担を軽減できるらしい。奥さんは土日和風レストランを経営していて、以前海外生活していた時和風レストランを経営、パティシエのスキルもあるらしく、1日三組限定のお客さんに素晴らしい和食を提供していた。見ていた感想は、二人ともやりがいのある仕事を持ち、そして仲の良い素晴らしい夫婦で、人生にやりがいを持ち、なんとも素晴らしい、多くの人が自分にはそんなスキルはなく無理だとしながらも憧れるような生活だった。

私も山奥に一人生活しているが、都会に住む女房とも春から秋は別居生活、生活の姿は、百姓、ウオーキング、たまの渓流釣りにゴルフ、それに読書と水彩画。それほど地域に溶け込んでいるわけでもなく、1週間、誰とも会話をしないなんてこともざらにある、独りぼっちと言える生活だ。まあ最近流行ってきている「二拠点生活」とも言えるが取り立てて羨むほどのことは何もない。むしろ女房と別居生活をしてまでやることか?おそらく近所の人も変わった爺さんと言うほどに見ているだろう。

なんでこんな生活をしているってかい?そうなんだよ。今になってはあまり意味のない生活になってしまったけど、小さい時から求めていた真理というものに辿り着きたくて山奥での1人、在家でありながら少しばかりの修行を通して道を求めてみた、その為に選んだ生活だった。そして真理に辿り着いた今、表面上どんな生活をしているかは問題で無くなってしまった。それは魂の問題であって表面の姿ではないのだから。したがって私の田舎暮らしは、前述の夫婦のように世の人に誇るべき何もない田舎暮らしです。でも、私には唯一、心の中の宝として真理への信仰がある。表向きに見るべきものは何もないが、心にはかけがえのない宝を持つ。そしてこの宝は誰でも、財産によらず、能力によらず、この世の地位によらず…etc、誰でも持つことのできる宝物だ。それで素晴らしいじゃないか、と思う。そんな思いに至ったポツンと一軒家だった。

2023年1月14日 (土)

カワセミ

今日、いつものように手賀沼のほとりのウオーキングロードを歩いて行くと、湖の上に張り出した枝にカワセミが一羽とまっているのを見つけました。カワセミはクチバシが長く青い羽根を持った綺麗な鳥です。その美しさから、漢字では「翡翠」と書くらしい。青い宝石💎などとも、「渓流の宝石💎などとも言われるらしい。手賀沼の遊歩道にはカメラ趣味の人がいて、すごい望遠レンズを装備したカメラを持ってこのカワセミを狙っている人も多い。人は知能を持ち、自我を持つ。美しいものに惹かれる。それ故美しいカワセミに惹かれる。仏教では愛は愛着、心を囚われるので否定的に取られる。人間故に難しいことを考え、また囚われる。

カワセミはそんな人間の気持ちには我関せず。その木に止まっていたい時にただ止まっている。そして湖の中の小魚でも探しているのか……。そして飛び立って行く。それ以外に手賀沼のほとりには、沢山の雀やらムクドリやら百舌鳥やら、そして白鳥やら沢山の鳥たちがただそこに居る。造り主が造ったままにそこに「今」を暮らしている。鳥には難しい自我などというものは無いのだろう。鳥は良いな〜。こんなことを考える人間は面倒な存在だな〜。などと考えながら遊歩道を行く。

2023年1月 2日 (月)

第1日目

2023年の第1日が終わり第2日目を迎えた。第1日目何をしただろう。朝起きて朝食に雑煮をいただき、1時間ほど散歩、ニューイヤーズ駅伝を少しみて新年会、近くに住む娘一家と新年会兼昼食、お節を頂き、ビール、日本酒、酔っ払って3時ごろから炬燵でうたた寝、夜起きて夕食、またビールを飲み、おせちの残りをいただく、テレビを見て風呂に入り、昼間寝たのでいつもの時間には寝られない。欲望の世紀、資本主義をNHK、BSで2時間ほどみて12時就寝。布団に入り、こんなことを考える。これで2023の第1日が終わり、1日死に近づいた。普段考えないし、いつかはわかっていないが死は決まっていて1日が終われば必ず1日死に近づく。そして人生も晩年を迎え間違いなくその残りも少なくなっていると言うのに、今日の1日はどうだったんだと。だからと言ってどうすれば、どのように生活すれば良い1日目を過ごせるのか?と言って回答も無い。コヘレトは言う、突き詰めて考えれば全ては空だと。どうせ全てが空なら笑ってこの世を楽しべば良いじゃないか?と言って刹那主義、快楽主義に走っても、過ぎてみれば又虚しいのは分かっている。まあ後いく日か過ぎれば又いつもの日常に戻りこんなことを考えて暮らすこともなくなることだし…。そんなことを考えているうちにいつしか眠りに落ちたzzz…。

ヨハネはこう書いている。十字架にかかりこの世の最後を迎えるイエスについて「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と。ヨハネ13:1。つまりこの世での最後を迎えた時、イエスのしたことは、弟子たちを愛することだったと。前述の答えも見つからないので参考まで…。

2022年12月31日 (土)

今年もあと少しで終わります…。

紅白をバックグランドミュージックに、夕飯の時のワインで少し酔いの残った頭でボーっとしています。このボーっとしているのが良いですね。今年もあと2時間ほどで終わります。昼食に年越し蕎麦をいただき、夕飯にふるさと納税でいただいた蟹すきにワインをいただき幸いな今を過ごしています。今年は色々なことがありました。娘一家、息子一家がコロナに感染。息子が腕の骨を折る。義妹が天に召される。本当に予想しないことが起こった一年でした。でもこうして今年最後の日元気にそして三度の食事にも恵まれ年が変わるのをカウントダウンできることに感謝です。あと何度年の瀬を、新年を迎えられるか分かりませんが、この世で起こること、目に映るこの世の出来事に一喜一憂することなく、心穏やかに、時を過ごしていければと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これが主が私に望まれることです。感謝のうちに、この世に送られてから72回目の年越しを過ごしています。全ての人の心に、シャローム!平安がありますように!全ての人々が良い年を迎えることができますように!全ての兄弟姉妹の心に主の恵みが与えられますように!

2022最後の日(大晦日)

2022最後の日を迎えました。何より今日という日を生かしていただいている事に感謝します。もう50年以上昔、高校を卒業して東京へ出てくる日、本家へ挨拶にいったとき、本家のお婆さまからこんな言葉を頂きました。「今、生きている事に感謝するなら、世の中に大変なことなど何も無い。」そう思い、考え、日々を頑張れと。高校の頃の雑記帳にそう書いてあります。ともすれば「今、生きている事」に感謝を忘れる自分がいます。2022最後の日の今日、生きています。72歳になって尚生きています。感謝していますか?その感謝を生かしてくださっている方にお返ししてますか?人生の晩年に入り、尚五体満足、概ね健康で、ウオーキングをし、時々ゴルフもできる事に本当に感謝する気持ちを強く感じます。それは裏腹に、もういつ天に呼ばれても、あるいは呼ばれる日が近づいたことを感じているからかも知れません。パウロは本当は天の国にいることの方が望ましい、がこの世に入れば生かしてくださっている方のお役に立てると言ってます。私はこの世にいてもまだほとんど恩返しも出来ず、相変わらず自分の為に生きる日々です。神様、どうぞ私を御用の為に用いてください。と祈る年の瀬です。

追伸:生きていることに感謝、とはどこかにまだ「御利益」的な匂いがする。そう、生きていても、死んでいても、御心に感謝!全ては御心のままにと喜んで全てを受け入れられるように。完全なる離脱。

2022年12月29日 (木)

新年の前に

今年も年の瀬を迎えた。毎日が日曜日の年金生活者にとって年末年始になっても休日になると言う楽しみは無い。楽しみは年末年始には年一度遠方に住む息子夫婦と孫が帰省すると言うことだ。孫は1歳2カ月になりチョコチョコ歩き回るようになり可愛さの盛りだ。ところが26日に突然連絡が入りコロナにかかったと。嫁が熱があるとのこと。孫はこの時点では元気でしたが28日に熱が出る。息子は陽性だが無症状。今度は孫の心配、こうなった時医者にかかることもハードルが高く医者にかかれない。市とかに相談しても結局たらい回し状態、結局自分達で電話しまくり、ネットで調べて医者探し、各個人で自力で頑張るしかない。世はほぼコロナ容認の状況になってきたがいざ感染した時にはただ耐えるしかない状況に変わりはない…。3年経ってもある意味無力なままである。

一方、こちらも楽しみにしていたが故に来れないとなってガッカリ、😮‍💨、正月への希望が縮んだ感じ。ふるさと納税も利用し、カニ、フグ、数の子、日本酒、もつ鍋やら準備したのに、今度はこれをどう消費するか?と言う悩みになってしまった。

そんな訳で人生の暮れを迎えた今、年末年始に遠隔に住み普段会えない息子夫婦、孫に会えると言う人並みの幸せも今年は奪われました。神様は人間に本当に沢山の能力を与えて来れました。その力を使って人間は進歩を続け豊かさを築いて来ました。でも神様は人間に、明日何が起こるのか?未来を知る力だけは与えませんでした。そんな事に直面した時人は自分の無力さを知り、「祈る」ことの大事さを知ります。

そんな訳で、心身共にポッカリと穴が空いてしまった年末となりました。

2022年12月23日 (金)

病院巡り!

今日、甲状腺エコーの検査が終了、我孫子に戻ってからの病院巡りが一通り終了しました。インフルワクチン接種、肺の定期検査、検査結果聴取、コロナワクチン接種、歯医者、人間ドック、そして本日の甲状腺、頸動脈エコー、とこの1ヶ月強の間にまとめて病院がよい。年を取りあちこちに検査が必要です。野菜を育てていて思います。種を蒔くに時があり、成長するに時があり、収穫するに時がある。そしてやがて傷んでいく。それが自然の摂理。人間の一生も又同じ。生まれるに時があり、成長するに時があり、老いるに時があり、死ぬるに時がある。それら全てが自然の流れであり、「神のなさることはみなその時にかなって美しい!」心静かにその時々を御心と受け入れて平安の中に「在る」と言うものでありたいと病院巡りをしながら思う!

2022年12月19日 (月)

人生の目的

人生の暮れにさしかかり思う。私の人生の目的は何だろう。私は何のためにどこから来て何処へ行くのだろう?ゴーギャンの絵のタイトルみたいだね。こんなことが頭に浮かびました。人生の晩年になって思います。その答えを知りました。私の人生の目的は「真理を求める旅を続ける」ことでした。現代日本の多くの人にとって恐らく「真理」などというものはほとんど価値を持たず、それよりも目に映ること、食べること、着るもの、仕事、勉強、携帯電話…etc、etc…の方を求め続けるでしょう。言葉は知っていてもほとんど無関心の言葉、普段は全く頭に浮かびもしない言葉かも知れません。「ピラトは言った。真理とは何かね?」と言うところでしょう。ついでに茶化して言えば「それはなんだい?腹の足しになるのかい?金になるのかい?」と言うところでしょうか。高校3年の頃こんな歌詞の歌がありました。「真理、人生、ああ青春」。この頃書いていた雑記帳の裏表紙の真ん中に同じ言葉が書いてありました。高校時代もやはり真理を求めていたようです

小学3年までに父も母も失った私が世の「無常」を知り、その時から探し求め社会人になっても尚、仕事より大事に求め続けたもの、退職しても尚今日まで探し求めているもの、その答えは「真理」でした。ちょっとかっこよく言えば「求道者」と言えるかも知れません。世の大多数の人にとって関心も無く、真剣に考えることもないと思われる真理こそ私が何物にも代え難いものとして求め続けるものです。真珠の隠されている畑を見つけた人は全ての財産を売ってその畑を買い求めないだろうか…と書かれています。また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってかみついてくるだろう。とも書かれています。

人生は皮肉です。家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった、とあります。不要な物として捨てた隅石こそが宝物となるからです。道元も貧なるが道に近し、と言っています。皆が避けたい貧乏、その貧である方が道には近いと。この世にあって人は幸せになりたいと願います。それで勉強します。あるいはスポーツに打ち込みます。良い大学へ入ろうとし良い会社に入ろうと願い、資産家になりたい、良い人と結婚したい、大きな家に住みたい…etc 。と頑張ります。でもそこに真理を掴みたいなどというものはありません。私にとって真理こそ何物にも替えがちものですが…。人生では一銭にもならず、形もなく、役にも立たない無駄なもの、それが真珠であり実は案外一番大事なものなのかも知れません。その代用品で喜び、次々と対象物を変え続け喜ぶのがこの世であり、経済発展の原動力であり、普通の人生なのかも知れません。なぜなら「その水を飲む者はまた渇く」からであり、渇いた人は又水を求めます。次々求めないと渇きます。人は二人の主人に仕えることはできない。と言います。一人を重んじれば一人は軽んじられるから…。世に使える人は真理には支仕えられず、真理に仕える人は世には仕えられない。それ故真理を求める人は世の人からは異邦人となります。

そんなことで私は山里に引っ込みました。あるのは山、川、田畑、それに猿、鹿などです。そこでは時間が沢山あり作務(農作業など)、食事、睡眠を除けばあとは全て自由時間、読書もよし、絵を描くのもよし、座禅もよし、瞑想🧘‍♂️もよし…です。

そして真理に出会いました。長くなりそうなので続きはまた…。