人生の暮れにさしかかり思う。私の人生の目的は何だろう。私は何のためにどこから来て何処へ行くのだろう?ゴーギャンの絵のタイトルみたいだね。こんなことが頭に浮かびました。人生の晩年になって思います。その答えを知りました。私の人生の目的は「真理を求める旅を続ける」ことでした。現代日本の多くの人にとって恐らく「真理」などというものはほとんど価値を持たず、それよりも目に映ること、食べること、着るもの、仕事、勉強、携帯電話…etc、etc…の方を求め続けるでしょう。言葉は知っていてもほとんど無関心の言葉、普段は全く頭に浮かびもしない言葉かも知れません。「ピラトは言った。真理とは何かね?」と言うところでしょう。ついでに茶化して言えば「それはなんだい?腹の足しになるのかい?金になるのかい?」と言うところでしょうか。高校3年の頃こんな歌詞の歌がありました。「真理、人生、ああ青春」。この頃書いていた雑記帳の裏表紙の真ん中に同じ言葉が書いてありました。高校時代もやはり真理を求めていたようです
小学3年までに父も母も失った私が世の「無常」を知り、その時から探し求め社会人になっても尚、仕事より大事に求め続けたもの、退職しても尚今日まで探し求めているもの、その答えは「真理」でした。ちょっとかっこよく言えば「求道者」と言えるかも知れません。世の大多数の人にとって関心も無く、真剣に考えることもないと思われる真理こそ私が何物にも代え難いものとして求め続けるものです。真珠の隠されている畑を見つけた人は全ての財産を売ってその畑を買い求めないだろうか…と書かれています。また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってかみついてくるだろう。とも書かれています。
人生は皮肉です。家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった、とあります。不要な物として捨てた隅石こそが宝物となるからです。道元も貧なるが道に近し、と言っています。皆が避けたい貧乏、その貧である方が道には近いと。この世にあって人は幸せになりたいと願います。それで勉強します。あるいはスポーツに打ち込みます。良い大学へ入ろうとし良い会社に入ろうと願い、資産家になりたい、良い人と結婚したい、大きな家に住みたい…etc 。と頑張ります。でもそこに真理を掴みたいなどというものはありません。私にとって真理こそ何物にも替えがちものですが…。人生では一銭にもならず、形もなく、役にも立たない無駄なもの、それが真珠であり実は案外一番大事なものなのかも知れません。その代用品で喜び、次々と対象物を変え続け喜ぶのがこの世であり、経済発展の原動力であり、普通の人生なのかも知れません。なぜなら「その水を飲む者はまた渇く」からであり、渇いた人は又水を求めます。次々求めないと渇きます。人は二人の主人に仕えることはできない。と言います。一人を重んじれば一人は軽んじられるから…。世に使える人は真理には支仕えられず、真理に仕える人は世には仕えられない。それ故真理を求める人は世の人からは異邦人となります。
そんなことで私は山里に引っ込みました。あるのは山、川、田畑、それに猿、鹿などです。そこでは時間が沢山あり作務(農作業など)、食事、睡眠を除けばあとは全て自由時間、読書もよし、絵を描くのもよし、座禅もよし、瞑想🧘♂️もよし…です。
そして真理に出会いました。長くなりそうなので続きはまた…。