2022年1月13日 (木)

とまれ!おまえは美しい!(ファウスト:ゲーテ)

世界は光に満ちている!

白内障の手術を受けて約一週間が過ぎました。雪が降ったり、雨が降ったり、風が強かったりで、この間、あまりウオーキングにも行けませんでした。また術後5日くらいは静かにしているようにも言われてました。今日は晴れ上がり比較的風も穏やかでしたので久しぶりにチョット長めの散歩に出かけました。

世界は光に満ち、輝いていました。そう、大袈裟に言えば、ああ、世界はこんなにも美しいのだ!という感じ。思わずゲーテ、ファウストの一節「とまれ、おまえは美しい!」と言う言葉が脳裏を横切ります。畑の野菜も、周りの木々も、遠くの木々も、そして葉を落とした紅葉樹の細い枝も、みんな、みんな、美しく映ります。白内障で少し白く濁った水晶体が綺麗になり薄い雲が晴れたように美しく世界が映ります。世界は術前と何も変わっていない。でも自分の見え方が変わるとこんなにも世界が美しく見える。手術を受けなければこの先死ぬまでみない世界が見えた。と大袈裟に言える。

神は、こんなにも美しく世界を作り、その栄光を現しておられる。一方、年を取ったら目も少しずつ衰え少しずつその世界の輝きが見えなくなる。それが自然の摂理だ、もう、そんなにハッキリと見えなくてもいいんだ!そうやって老いていくのだとも言えるか。

ともあれ、こころ踊る散歩でした。感謝!

2022年1月10日 (月)

あなたがたのうちだれが…。

思い悩むな!

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」ルカ12:25、26

そうなんです。人は随分学び、沢山の知識を得、多くの人は医者に掛かるくらいのお金は持っている。結構賢くなったと思っている。そして多くのことができる、可能だと暗黙のうちに思っている。しかし、よく考えてみると人は大事なことが何もわかっていない。例えば、今自分の体の中で起こっていること、何もはっきりとは知らない。どんふうに血液が作られ、身体中を巡っていること、巡りながら何をしているか?もしかしたら、その血管の中に一部の狭いところがありそこで血液が詰まっているかもしれないこと?そう、厳密な意味では体の中で行われているさまざまな事を何も分かっていない。先日、大阪のビル火災で亡くなった方のご冥福を祈りながら、誰が朝家を出る時、もうこの家に戻ることはないと知っていただろうか?そう!人は実は何も分かっていないのではないだろうか?それなのにああだこうだと思い悩む。思い悩むのは自分の頭の中で勝手な推測に振り回されて、バーチャルな世界で思考が飛び回っているだけで、現実に起こることとはほとんど異なる事を思い悩んでいる。いわゆる、取り越し苦労ということになる。思い悩んだからと言って未来のことを自分で変えることはできない!ここで、こう思うしかなくなる。そう神様の計画は誰にも分からない。それ故、未来のことを思い悩んでみても無力であると。人に出来ることは、無力な自分を知り、神の計画は神にお任せし、ただ、慈しんでください。憐れみをください。祝福してお恵みください。と祈るだけである。その上で尚、御心に従順することである。

2022年1月 7日 (金)

白内障手術!

昨日、右目の白内障手術を行いました。昨年、3月に左目手術をしており今回は右目の手術です。70歳を過ぎ、体はあちこち老朽化、目の水晶体も老朽化して白濁してきておりその取り替えです。昨年の手術を受けた後は左目の視力は1、2くらいに回復しこのままでも生活には支障ないかと思いましたが、右目の白内障の進行を遅らせる目薬をずっと続けるのも大変かと、また、右目片方で見た時の世界は輪郭が少しぼやけて、左目の映りにはだいぶ劣ることもあり、今回右目の手術を受けました。手術は7〜8分で無事終わりホッとしましたが、やはり施術の前は色々な思いが頭を巡り不安もありました。しかし自分でいくら思い悩んでもどうにかなるものでもなく、すべてを御心のままにと御手に委ね、そして祝福を祈りました。そして今朝病院で眼帯を外すと、前回左目を受けた後ほどの感激ではありませんが世界が明るくはっきりと目に入りました。嬉しい限りです。神に感謝します。今日からは時々通院しながら目薬による術後フォローに入ります。まだまだ注意が1ヶ月は必要ですが、何はともあれ手術の成功を神と医者の先生、看護婦さんに感謝します。

このような経験を通じ自分が年老いてきている事を実感し、日々の恵みに心から感謝しながら暮らしたいと山の暮れに思います。

2022年1月 1日 (土)

明けましておめでとうございます。

2022年の最初の朝を迎えました。「光あれ。」こうして光があった。2022年も又光の中を歩む年でありますように!

朝起きてまず最初に聖書の年間通読の1日目を学ばせていただきました。創世記1、2章です。ここから始め毎朝その日に割り当てられた聖書箇所を学び、一年かけて聖書を通読します。これが毎朝の学びであり、今年の第一歩を踏み出しました。主が祝福してくださり毎朝毎朝聖霊の臨在の中で光の中を歩くことが出来ますように。主の栄光が世よ限りなくありますように!御名が崇められますように。御国が来ますように。御心の天になるごとく地にもなりますように。例えわずかでもこの世にあって主の栄光を現すことが出来ますように。聖霊様の導きの中を歩くことができますように!

全ての兄弟姉妹の心に私たちの父である神と主イエスキリストからの恵みと平和が豊かに与えられますように。アーメン。

2021年12月28日 (火)

悲しい知らせ

今日は遅ばせながら年賀状を書いた。今では断捨離で10枚しか書かない。その後で訃報が届いた。確か私より2歳ほど先輩だった友人からだから、73、4歳くらいになる先輩からで、その中には41歳の娘さんが今年亡くなったとある。毎日この世に起こるニュースを見て「諸行無常」明日のことは誰も分からないと思いますが、こうして身近に友人からの訃報を見るにつけ、本当に明日のことはわからないと実感する。自分の子供が親より早くこの世を去る悲しみは、親にとって如何許りかと推測する。年の瀬に本当に悲しいニュースでした。ご冥福をお祈りします。

三屋清左衛門残日記=藤沢周平

三屋清左衛門残日記

久しぶりに三屋清左衛門残日記を見た。勿論こんなドラマのような世界があったとは思いませんが、何か武士の時代にはこのような生き方、人間同士の結びつき、心の交流があったかも知れないと羨ましくなる。現代社会にはほとんど失われた世界のように思われる。侍同士、男と女、父と子、嫁の在り方、全てに今とは違う世界。ああ、こんな男の友人、女の友人がいたらどんなに楽しく喜ばしいことだろうと思って見ました。この世で味わうことのできる可能性があるかもしれない(まあ、現代では無理だと思われるが…)至福の時だろう。

「士は汝自身を知る者のために死ぬ」と言われ、隠居に入って尚気高く生きる男が気高い心を持った女性と節度ある交流をする。お互いに自分の思いに耐えながら心は通い合うそんな情愛。みんな夢のような話であるが羨ましい藤沢周平の世界でした。

2021年12月25日 (土)

クリスマス(Ⅱ)

今夜は我が家もクリスマス!鶏肉、サラダ、ハム盛り合わせ、チーズ盛り合わせ、パンプキンスープ、ケーキ、なぜかカキフライ、シャンパン、プレゼントが行き交う。豊かな、本当に豊かなこの世的な幸せなクリスマス。孫は四つも五つもプレゼントを貰う。本当に恵まれたこの世的なクリスマス!私は、一人お祈りを捧げてから食事をいただく。試しに「俺のお袋は明日命日です。イエス様と同じ33歳でこの世を去りました。」と言ってみる。みんな「ふーん」と言うだけ。この豊かさの前になぜか気持ちが落ち込むわたし、これがクリスチャンホームだったらどうなんだろう?きっともっと細やかに慎ましく食卓を整え、お祈りをして、イエス様に想いを馳せながら静かに食事をいただくのでしょうか?話題もイエス様のこと、神様のこと、日々の恵みに感謝のことなど話しながら。でもその心には静かな喜び、平安がある、感謝がある。この世的な家庭で一人だけクリスチャン!毎年ですが、どうにも辛いクリスマスです。でもそのような中にあっても尚十字架のイエス様を見つめて一日一日を生きていきたい、信心深い生活を送ることができますようにと祈ります。

クリスマス

「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」イザヤ7:14 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ルカ2:7

今日はクリスマス、日本では年末の大イベント、クリスマス商戦真っ只中、みんなケーキと鶏肉を食べ、プレゼントの交換をする。クリスマスの何かも、イエスキリストの何かもお構いなしに踊っている。2千年前キリストは馬小屋で生まれたと言われている。私の心は馬小屋のように汚れており、その私の心の中に生まれてくださった。この心を清くしてくださるため。そして今、イエス様の霊が聖霊として私の内に住んで下さった。生まれながらの罪深い人間を生まれ変わらせ生かしてくださる。イエスは33年後、その私の山ほどの罪の贖いのため神に生贄としてご自分を捧げ、私の罪を贖って下さった。神はその一人子イエスを、私のようなつまらない罪深い人間を救う為、その命を召された。その愛に感謝をしながらもその愛に応えられていない自分を悔やみます。

奇しくもまた明日はイエスと同じ33歳でこの世を去った私の母の命日でもあります。

クリスマスの夜、イエスの誕生を感謝し、神の愛に感謝して慎ましくお祝いして祈りを捧げます。

「全ての兄弟姉妹の心に、私たちの父である神と、主イエスキリストからの恵と平和が豊かに与えられますように。アーメン!」

2021年12月18日 (土)

都会の我が家に戻って!

早いものでこちらに帰って1ヶ月と10日ほどが過ぎました。娘と孫二人が狭い我が家に住み着いて「じいじも」細やかながら幼稚園への送り迎え、お風呂入れなど手伝いながら、毎日が騒がしく暮らしています。なにしろ山奥での一人暮らしに慣れた身には、狭い家に女房以外に3人、土日には旦那も来る、自分の居場所もなくストレスが溜まります。そんな中で11月下旬には息子の長女誕生のお宮参りに大阪へ3泊4日の旅、問題児だった息子も父親になり一生懸命娘の世話をしている姿を見ると「こいつも一人前になったな」と感無量でした。また、昔の絵の仲間の先輩とゴルフもしました。77歳になったその人は、少し認知症が進み、明日の我が身を見るような想いがして複雑です。そして人間ドック、眼医者、気管支拡張症の病院となかなか色々ある。人生の晩年の縮図のような日々でした。人間誰も明日のことは分からない、と言いますがその通りで、これを書いている昨日も大阪でビル火災、多くの人が亡くなりました。皆んな朝病院に行くのにまさか自分が今日、この世での終わりになるとは想像だにせずに行かれたと思いますでも現実はご存じの通りです。でも、歴史は時の流れは、そんな思いを嘲笑うかのように無言で通り過ぎていきます。そしてやがては人の記憶からも消えていきます。そんな人生にあってどう生きるのか?70何年追い求めて来た今の思いは、やっぱり「信仰」何かを信じそれに全てを委ねる、そんなことに徹した暮らしを生きること。これだけかな?と、思う!しかしこの信じ切って全てを委ねる、これが難しい。歎異抄でも言われている「ただ信を要とす」と。ただその信に至った人がどれくらいいるか。😢。

2021年11月 6日 (土)

人生の晩年を美しく生きる

A1e71b76621343ff94261e54fbdf6e99人生の晩年を美しく、そして清らかに生きたい!もう今年のこの山里での暮らしもあと数日に迫った。周りの山々もこの数日の寒さで紅葉が一気に進み、木々も最後の装いを美しく見せている。畑の作業等もほぼ終わり、最後に都会へ帰る準備を残すのみとなり、秋の紅葉、この山里とのお別れの郷愁、小春日和の心地よさ、等が相まって、ふと人生の晩年に想いが映る。ベランダに椅子を出して、コーヒー豆を挽き、香り立つコーヒーと日向ぼっこの心地よさ、頭の中はボーとして、もうこの世で必要なものも無い、ただ美しく澄んだ心でこの山里の自然の中に同化していく。

ああ、人生の晩年で望むべきものはただ一つ「美しく、清らかな心で、この宇宙と一つになっていたい。」ただそれだけである。

私の毎朝のウオーキングの道すがらの写真です。この道を勝手に礼拝の道と名付けています。

Bea293c3ae1c43d9932ecbd9b59af9ed

礼拝堂への道

天気が良い日には毎日この道を通って礼拝堂に向かう。雑木林の綺麗な道です。

53d14195bcd340ad9d3c05d7b4d094b3

礼拝堂からの中央アルプス

毎朝、ここに立って祈りを捧げます。こうして元気に歩いてここまで来れたことへの感謝、沢山の木々、青い空、中央アルプスの美しさ、沢山の恵みに感謝します。全ての人々の心に今日も神様からの恵みが豊かに与えられます様に!

B865a33a1bf843d2a0cc24161a282b68

礼拝堂

勝手に自分でそう名付けただけのあずまやです。でも中央アルプスの眺め、眼下の駒ヶ根の町、美しいところです。

Dfe3e429ebc64cbbb1173300410bae59

山里の我が家(窪地にあるワインレッド色の屋根の家)

まわりは全て山に囲まれた静かなのどかな山里です。限界集落?ですかな?