2022年1月18日 (火)

高齢者講習!

今日は高齢者講習で何十年ぶりかの自動車教習所へ行ってきました。高齢者の事故の増加に伴い、高齢者が免許を更新するにはいろいろなハードルが設けられました。75歳未満の人は座学とコースでの自動車運転が必要となりました。2時間強で講習は終わりました。コースでの運転は緊張しましたがまあどうと言うことも無かったかなと。これが75歳になるとまず認知症検査を行い、その結果によってその後講習内容が変わってくるとのこと。いやはや年寄りには面倒な制度が出来ました。都会暮らしならもう車を手放し、必要な時にはタクシーを使った方が気は楽だしコスト的にも安上がりだと思いますが、何しろ田舎暮らしを兼ねた今の生活では田舎にいるときには車が必須で免許返納も出来ず困ったことです。まあ次回更新は75歳に成るのでぼちぼち生活設計を検討していくか?と言うところです。😄。最も75歳になったとき健康で暮らしていられるか否か、誰にも未来のことは分かりませんが…。

2022年1月16日 (日)

鳥はいいなぁ!

今朝は風も弱く快晴の良い天気。白内障手術10日経過で通常の運動が解禁となりました。早速久しぶりのウオーキング、いつものルートを早足で歩きます。折り返し地点の公園でストレッチ、手賀沼を飛ぶ鳥の群れを🦆みました。ふと「鳥はいいなぁ!」と心に浮かびました。皆んなで仲良く何も考えずに、ただ飛んで行く。(隊列は何か空気抵抗等を考えているようですが、自然に身についた者で別に皆で協議している訳では無いか?)ただただ神が作られたままにそこに居て、そして空を飛び餌を食べ1日を終えていく。人間は、ああでもない、こうでもないと考え、何か心配事があれば、思い悩む。この知性によって人間は鳥よりは優れたものとされながら、一方で重い悩みも多い。おりしもオミクロンの感染が急拡大、心配だ!。鳥だって仲間の一人が突然撃たれて死んでしまうかもしれない。病気に罹るかもしれない。でも、きっとそんな明日の心配より今を無心に飛んでいる。「鳥はいいなぁ!」と、なぜか手賀沼の上を、晴れた青空の中を飛ぶ鳥の群れを見て思った。

2022年1月13日 (木)

とまれ!おまえは美しい!(ファウスト:ゲーテ)

世界は光に満ちている!

白内障の手術を受けて約一週間が過ぎました。雪が降ったり、雨が降ったり、風が強かったりで、この間、あまりウオーキングにも行けませんでした。また術後5日くらいは静かにしているようにも言われてました。今日は晴れ上がり比較的風も穏やかでしたので久しぶりにチョット長めの散歩に出かけました。

世界は光に満ち、輝いていました。そう、大袈裟に言えば、ああ、世界はこんなにも美しいのだ!という感じ。思わずゲーテ、ファウストの一節「とまれ、おまえは美しい!」と言う言葉が脳裏を横切ります。畑の野菜も、周りの木々も、遠くの木々も、そして葉を落とした紅葉樹の細い枝も、みんな、みんな、美しく映ります。白内障で少し白く濁った水晶体が綺麗になり薄い雲が晴れたように美しく世界が映ります。世界は術前と何も変わっていない。でも自分の見え方が変わるとこんなにも世界が美しく見える。手術を受けなければこの先死ぬまでみない世界が見えた。と大袈裟に言える。

神は、こんなにも美しく世界を作り、その栄光を現しておられる。一方、年を取ったら目も少しずつ衰え少しずつその世界の輝きが見えなくなる。それが自然の摂理だ、もう、そんなにハッキリと見えなくてもいいんだ!そうやって老いていくのだとも言えるか。

ともあれ、こころ踊る散歩でした。感謝!

2022年1月10日 (月)

あなたがたのうちだれが…。

思い悩むな!

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」ルカ12:25、26

そうなんです。人は随分学び、沢山の知識を得、多くの人は医者に掛かるくらいのお金は持っている。結構賢くなったと思っている。そして多くのことができる、可能だと暗黙のうちに思っている。しかし、よく考えてみると人は大事なことが何もわかっていない。例えば、今自分の体の中で起こっていること、何もはっきりとは知らない。どんふうに血液が作られ、身体中を巡っていること、巡りながら何をしているか?もしかしたら、その血管の中に一部の狭いところがありそこで血液が詰まっているかもしれないこと?そう、厳密な意味では体の中で行われているさまざまな事を何も分かっていない。先日、大阪のビル火災で亡くなった方のご冥福を祈りながら、誰が朝家を出る時、もうこの家に戻ることはないと知っていただろうか?そう!人は実は何も分かっていないのではないだろうか?それなのにああだこうだと思い悩む。思い悩むのは自分の頭の中で勝手な推測に振り回されて、バーチャルな世界で思考が飛び回っているだけで、現実に起こることとはほとんど異なる事を思い悩んでいる。いわゆる、取り越し苦労ということになる。思い悩んだからと言って未来のことを自分で変えることはできない!ここで、こう思うしかなくなる。そう神様の計画は誰にも分からない。それ故、未来のことを思い悩んでみても無力であると。人に出来ることは、無力な自分を知り、神の計画は神にお任せし、ただ、慈しんでください。憐れみをください。祝福してお恵みください。と祈るだけである。その上で尚、御心に従順することである。

2022年1月 7日 (金)

白内障手術!

昨日、右目の白内障手術を行いました。昨年、3月に左目手術をしており今回は右目の手術です。70歳を過ぎ、体はあちこち老朽化、目の水晶体も老朽化して白濁してきておりその取り替えです。昨年の手術を受けた後は左目の視力は1、2くらいに回復しこのままでも生活には支障ないかと思いましたが、右目の白内障の進行を遅らせる目薬をずっと続けるのも大変かと、また、右目片方で見た時の世界は輪郭が少しぼやけて、左目の映りにはだいぶ劣ることもあり、今回右目の手術を受けました。手術は7〜8分で無事終わりホッとしましたが、やはり施術の前は色々な思いが頭を巡り不安もありました。しかし自分でいくら思い悩んでもどうにかなるものでもなく、すべてを御心のままにと御手に委ね、そして祝福を祈りました。そして今朝病院で眼帯を外すと、前回左目を受けた後ほどの感激ではありませんが世界が明るくはっきりと目に入りました。嬉しい限りです。神に感謝します。今日からは時々通院しながら目薬による術後フォローに入ります。まだまだ注意が1ヶ月は必要ですが、何はともあれ手術の成功を神と医者の先生、看護婦さんに感謝します。

このような経験を通じ自分が年老いてきている事を実感し、日々の恵みに心から感謝しながら暮らしたいと山の暮れに思います。

2022年1月 1日 (土)

明けましておめでとうございます。

2022年の最初の朝を迎えました。「光あれ。」こうして光があった。2022年も又光の中を歩む年でありますように!

朝起きてまず最初に聖書の年間通読の1日目を学ばせていただきました。創世記1、2章です。ここから始め毎朝その日に割り当てられた聖書箇所を学び、一年かけて聖書を通読します。これが毎朝の学びであり、今年の第一歩を踏み出しました。主が祝福してくださり毎朝毎朝聖霊の臨在の中で光の中を歩くことが出来ますように。主の栄光が世よ限りなくありますように!御名が崇められますように。御国が来ますように。御心の天になるごとく地にもなりますように。例えわずかでもこの世にあって主の栄光を現すことが出来ますように。聖霊様の導きの中を歩くことができますように!

全ての兄弟姉妹の心に私たちの父である神と主イエスキリストからの恵みと平和が豊かに与えられますように。アーメン。

2021年12月28日 (火)

悲しい知らせ

今日は遅ばせながら年賀状を書いた。今では断捨離で10枚しか書かない。その後で訃報が届いた。確か私より2歳ほど先輩だった友人からだから、73、4歳くらいになる先輩からで、その中には41歳の娘さんが今年亡くなったとある。毎日この世に起こるニュースを見て「諸行無常」明日のことは誰も分からないと思いますが、こうして身近に友人からの訃報を見るにつけ、本当に明日のことはわからないと実感する。自分の子供が親より早くこの世を去る悲しみは、親にとって如何許りかと推測する。年の瀬に本当に悲しいニュースでした。ご冥福をお祈りします。

三屋清左衛門残日記=藤沢周平

三屋清左衛門残日記

久しぶりに三屋清左衛門残日記を見た。勿論こんなドラマのような世界があったとは思いませんが、何か武士の時代にはこのような生き方、人間同士の結びつき、心の交流があったかも知れないと羨ましくなる。現代社会にはほとんど失われた世界のように思われる。侍同士、男と女、父と子、嫁の在り方、全てに今とは違う世界。ああ、こんな男の友人、女の友人がいたらどんなに楽しく喜ばしいことだろうと思って見ました。この世で味わうことのできる可能性があるかもしれない(まあ、現代では無理だと思われるが…)至福の時だろう。

「士は汝自身を知る者のために死ぬ」と言われ、隠居に入って尚気高く生きる男が気高い心を持った女性と節度ある交流をする。お互いに自分の思いに耐えながら心は通い合うそんな情愛。みんな夢のような話であるが羨ましい藤沢周平の世界でした。

2021年12月25日 (土)

クリスマス(Ⅱ)

今夜は我が家もクリスマス!鶏肉、サラダ、ハム盛り合わせ、チーズ盛り合わせ、パンプキンスープ、ケーキ、なぜかカキフライ、シャンパン、プレゼントが行き交う。豊かな、本当に豊かなこの世的な幸せなクリスマス。孫は四つも五つもプレゼントを貰う。本当に恵まれたこの世的なクリスマス!私は、一人お祈りを捧げてから食事をいただく。試しに「俺のお袋は明日命日です。イエス様と同じ33歳でこの世を去りました。」と言ってみる。みんな「ふーん」と言うだけ。この豊かさの前になぜか気持ちが落ち込むわたし、これがクリスチャンホームだったらどうなんだろう?きっともっと細やかに慎ましく食卓を整え、お祈りをして、イエス様に想いを馳せながら静かに食事をいただくのでしょうか?話題もイエス様のこと、神様のこと、日々の恵みに感謝のことなど話しながら。でもその心には静かな喜び、平安がある、感謝がある。この世的な家庭で一人だけクリスチャン!毎年ですが、どうにも辛いクリスマスです。でもそのような中にあっても尚十字架のイエス様を見つめて一日一日を生きていきたい、信心深い生活を送ることができますようにと祈ります。

クリスマス

「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」イザヤ7:14 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ルカ2:7

今日はクリスマス、日本では年末の大イベント、クリスマス商戦真っ只中、みんなケーキと鶏肉を食べ、プレゼントの交換をする。クリスマスの何かも、イエスキリストの何かもお構いなしに踊っている。2千年前キリストは馬小屋で生まれたと言われている。私の心は馬小屋のように汚れており、その私の心の中に生まれてくださった。この心を清くしてくださるため。そして今、イエス様の霊が聖霊として私の内に住んで下さった。生まれながらの罪深い人間を生まれ変わらせ生かしてくださる。イエスは33年後、その私の山ほどの罪の贖いのため神に生贄としてご自分を捧げ、私の罪を贖って下さった。神はその一人子イエスを、私のようなつまらない罪深い人間を救う為、その命を召された。その愛に感謝をしながらもその愛に応えられていない自分を悔やみます。

奇しくもまた明日はイエスと同じ33歳でこの世を去った私の母の命日でもあります。

クリスマスの夜、イエスの誕生を感謝し、神の愛に感謝して慎ましくお祝いして祈りを捧げます。

「全ての兄弟姉妹の心に、私たちの父である神と、主イエスキリストからの恵と平和が豊かに与えられますように。アーメン!」