2020年3月22日 (日)

山里に帰りました!

ブログご無沙汰しました。3月20日に山里に戻りました。例年は4月中旬に戻りますが、今年はコロナの関係もあり、持病のある私は都会暮らしは心配で例年より早く戻りました。ここは限界集落へと向かっており、他人と濃厚接触する確率は非常に低いです。唯一買い物でスーパーへ行く時に、人が沢山いるところに出るくらいです。ただ、まだ寒いです。今年は雪が少なく雪は残ってませんが、朝は氷点下になります。本日から2週間、念の為自宅隔離を自主的に行う予定です。ボチボチ、畑の準備やらありますので余り退屈はしないかなと。今日は早速、ネギの種まき、ブルーベリーの挿木など行いました。水、木曜日頃には渓流釣りにも出かけようかな、と考えでます。

今シーズンの山里暮らしスタートです。🤗🎣。

2020年2月18日 (火)

蛍草:菜々の剣

NHKの土曜時代劇「菜々の剣」を楽しみに見ています。主人公の菜々を見ながら、武士の家に生まれながら父、母を早くに亡くし、いつかは父の仇を取ろうと心に強く秘め、へり下って他家の武士の家で奉公人として働く主人公にノルスタジーを感じながら、その凛とした生活姿勢、強い想いを内に秘めて生きる姿に、素敵だなぁ!、武士の時代には良いか悪いかは別にしても、小さい時から叩き込められた、武士の娘としての誇り、しつけを通し養われた慎ましくも強い心の人々が多かったんだろうなあ、今の時代の若いお嬢さんとは少し違うかなと思いながら、憧れとそのように育った背景にある社会、価値観、教育などに想いを馳せます。今の時代、美しい女性が沢山います。TVとか見ていても、ここにもここにも綺麗な女性が出てきます。そして強い女性も沢山います。相対的に強い男性は減少しているかと、勿論、それが悪いとか良いとか言うことではありません。しかし内面から輝き出るような慎ましく美しい人にはなかなか出会いません、勿論これも私の主観ですが…。

蛍草の様に野に何処にでも咲いていて、人の目に止められることもあまりなく、しかし造り主の造られた意図のままにそこにあり、心ある人にはソロモンの栄華より着飾って見え、作り主の栄光を現している。蛍草とは露草とも言われ、その一つひとつの花は朝に咲いて昼にはしぼむ短命の花だそうです。それ故に陽が登れば消える露のようであり露草と言われると。

2020年2月16日 (日)

わたしの正しい者は…

わたしの正しい者は信仰によって生きる。生きているとはなんでしょう?正しく生きるとはなんでしょう?私たちに生きている意味などあるのでしょうか?人はこの世に自分の計り知れないところからやって来ます。この世に生を受け、色々なこの世的知識、常識などを叩き込まれながら段々大きくなります。そして自我に目覚めた頃にはこの世の価値にかなり染まっています。そして社会に出てすっかりこの世に染まります。自分の価値観、人生観などと言っても所詮この世の常識、本などを通して身につけた自分にとって正しいと思う価値観に染まったものであり、実際のところ本当に正しいのかさえ分かっていません。そんな自分と言いながら実は自分では無いものに振り回されて1日1日を過ごしていきます。そして歳をとりやがてこの世を去ります。一生はかように虚しいものでは有りませんか?。表面的にはこのような生と同じように見えてまったく違う人生、それは信仰によって生きているか?です。ここで言う信仰とは宗教的なものに限りません。いわゆる絶対に譲ることのない信念を持っているか否かによるという事です。例えば西郷隆盛は「敬天人愛」を自分の信念としていました。賢治は「本当の幸せ」を求め続けて生きるのが信念だった。大臣になろうと、教授になろうと社長になろうとスターになろうと漁師になろうと百姓になろうとそれらは全て表面的なものであり、何であってもよい事であり大した違いもない。その人の表面上の問題ではなくその人が信仰を(信念を)持ってその日々の暮らしをしているか、それともその目に見える世界だけに生きているのか?。そしてその信仰がより普遍的、真理であるかである。「正しい者は信仰によって生きる」「義人はいない1人もいない」私は信仰によって生きる。

2020年2月 7日 (金)

町に住んで3ヶ月!

町に戻って3ヶ月になります。毎日規則正しい生活をしています。午前中はウオーキング、ストレッチに約2時間、午後は一休みして夕飯の準備。実質一人暮らしは田舎にいても町に来ても変わりません。ほとんど人とも会話をしません。私の友達は主、キリストだけです。それは寂しさ半分、幸せ半分です。聖書は毎朝読みます。この時間が幸せな時間です。感性を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、この世では1人になり神の国では神に近しくなります。残りの人生も毎日短くなって行きます。もはや何が正しいとか悪いとかより私の魂が主と共にいることだけを求めます。全ては御心のままに。そして御心にただ従順に暮らせますように!

2020年1月 9日 (木)

よく見ればなずな花咲く垣根かな(ⅱ)

「よく見ればなずな花咲く垣根かな」
芭蕉の句です。
今朝、ふと思いました。この句を詠むほどの詩人の感性に、あるいは心境になりたい。ではなく、それもあるけど、「このなずなのようになりたいと。」自分からは何も語らず、人からはよく見ないと気付かれない存在、ぺんぺん草と呼ばれ、人に相手にされない花、でもね、よく見てくれる人(目覚めている人)には静かな喜びを持ってその人の心に宿る花。
またでもね、山道を登りながら考えた。「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値あることか。」と言ってくださる方からたくさんの恵みを受けてこの世に来た私は、一度なずなになって、そこから何かができるのではないだろうかと。しかしまあ、このなずなになることさえ一生涯かけてもなれないかもしれないけど…😥

2020年1月 8日 (水)

あなたはどこにいるのか?

神様はアダムとイヴを探して言います。「あなたはどこにいるのか」と。この時アダムは既に善悪を知る木の実を食べていました。以前の私と同じように神に背を向けた者となっていました。裸でいることを恥ずかしいと知り、神から隠れていました。そこに神が言われます。「あなたはどこにいるのか?」と。一体私は今、何処にいるのでしょう?この娑婆と言う世界にドップリ浸かってこの世に居ます。神の国からはすっかり離れています。そしてこの世での幸せを求めています。

そんな私に神は呼びかけられます。「お前は何処にいるのか?。そこに居て良いのか?。それがお前の本当に望むところなのか?」と。そしてもしお前が今の世に渇き、何かを求めているなら「わたしについて来なさい。」と。「渇いているものは、わたしのところに来て飲みなさい」と。

神に感謝します。私を選んでくださり、あなたの元へと連れて来てくださったこと。私はあなたと共に歩きたいのです。どうか共にいてくださり、この世での残された命を聖なるものに作り変えてください。それだけが残されたこの世での日々の望みです。

2020年1月 7日 (火)

ついて来なさい。そうすれば分かる!

「ついて来なさい。そうすれば分かる。」この言葉は最初の弟子となるペテロ、ヨハネらにイエスが最初にかけられた言葉です。勿論、彼らはイエスが何者か、どんな力を持っているのか、どんな人か知りませんでした。その彼らに対し、イエスは自分が何者かを語ることもなく、ただ「ついて来なさい」と言われました。そして彼らはその言葉に応え、ついて行きました。普通、何者かも分からない人については行かないと思われるのに…。そして現代、私がもしイエスに、ついて来なさいと言われたらついて行くだろうか?私たちは今もイエスから「ついて来なさい」と呼びかけられているに…。勿論、彼らはイスラエルの国民であり昔から旧約聖書はそれなりに学んでおり、神とか救い主とかのことは予備知識的には知っていたとは思われるが…。そして当時イスラエルはローマの支配下にありイスラエルの人々は救い主を待望していたとは思いますが。(彼らが待ち望んでいたのは、政治的な、物理的な救い主ですが…。) 何か本当に切実なものを求めている時には、たとえ相手のことを詳しく知らなくてもこの人は何か持っている、なにかを感じる時、思い切って飛び込むことも必要なんではないでしょうか?それが信じると言うことかもしれません。いわゆる清水の舞台から飛び降りたつもりと言うやつですか。でも、わたしはやっぱり飛び降りたら怪我するよね、と飛び降りることはしないでしょう!

そして弟子たちはイエスと一緒に旅を続け、色々な経験、教えを共有しながら、かなりの時を過ごした後、イエスは彼らに言います。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」と(これは、彼らが望んでいた政治的救いではなく、魂の救いのことであり、この時彼らには本当の意味は分かりませんでしたが。)ついていけばやがてイエスが何物か分かる。そしてイエスを通して真理に到達すると。と言うことで、それは今イエスの言った言葉です。

ついて行きなさい。そうすれば分かる!ついて行くか、まあ止めとくかです。選択は自由ですが…。

2020年1月 4日 (土)

お祭りの終わり!

先程息子夫婦が高松に帰り年末から続いたお祭り、宴会の日々が終了しました。この約1週間の間、毎日お酒は欠かさず飲み、ご馳走を食べ続けました。クリスチャンの私としては全く慎みの無い無分別な日々でした。胃の調子も悪くなり、残ったものは胃の不快感と、送った日々の虚しさです。まあ息子夫婦も喜んでくれ普段遠く離れているので、親しく交流が出来たことを良しとしたいと思います。明日から新しい日々を迎えます。キチンと教会に通い心に清い刺激をいただき生活が清くなるように導いていただきたいと思います。わたしには段々、世に従うことがバカバカしくありますが、一方家族は皆クリスチャンではなくわたしの思いの多くは共有することはできません。一つ屋根の下、協調も必要であり自分は僕とし生きることに徹底はしているつもりですが、まだつい自我が主張し不協和音になります。自分も家族も不快な思いをし、そのたびに自分の信仰の弱さを知らしめられます。まだまだ、私の自我は死ぬことが出来ずにいます。自分の十字架を背負ってキリストに従うことが出来ずにいます。私は仕えるためにこの世に来た。イエスは自分の命まで捨てて神に、私たちに仕えてくださった。このことを体の隅々にまで染み渡らせてくださるように祈ります。アーメン!

2020年1月 1日 (水)

明けましておめでとうございます㊗️

2020年を迎えました。生まれたのが1950年ですので70歳の年を迎えました。よくぞ70年生きて来ることができました。敦盛では人生50年…と吟れますがそれより20年も長くなります。そして下天は夢かと言うように振り替えると全ては夢幻かと思われます。全てのことがあったようで実はなかったかのように感じられます。結局、今を大事に生きる事であり、今だけが生きていると言う事でしょうか?これからは今までの何倍かのスピードで老いを感じる日々になるかと思いますがその日その日を誰かに心から仕えられる日々を送れるように精進したいと思います。聖霊がどうか導いてくださいますように!全ての生きとし生けるものに神様からの恵みが豊かに溢れる年であります様に御祈りします。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」テサ1、5:16〜18

2019年12月31日 (火)

大晦日

年の瀬のスーパーはすざましい。大変多くの人が大晦日、正月の買い物に大忙しだ。魚も野菜も通常の2倍以上くらいの価格にもかかわらずみんな争うように買って行く。ここだけ見ていると日本は本当に豊かな国だと思う。もっとも中にはここに来れない人もおられるのだろうけど。昔は多くの人が貧しく、せめて大晦日、正月くらいはご馳走をと言うことだったのだろうけど、今は普段でも、

2cbc51dc3a8e4fcda2a750c48da92be8


それなりに満たされているとは思われるが…。お店もかき入れ期で、こうして全体として丸く収まって行くのだろうけど、貧しい生活を送っている小生には、この争うように買い物する姿に何か人間の悲しみを感じてしまう。ひねくれ者だとは思いますが…。まあいろいろ言わずに軽く一杯やりながら紅白歌合戦でも見ましょう!それが幸せでしょう。皆さん良いお年をお迎えください。2020年が良い年になりますように!