2019年9月 1日 (日)

かぼちゃをめぐる猿との闘い(2)

猿との闘いの(2)です。

そんな訳で大変なショックですぐには立ち直れません。この年は近隣の農家は猿の被害はなく、なぜうちのカボチャだけ?なぜ神は私にだけ試練を与えるの?心の整理をつけるのが大変でした。

ヨブ記に「主は与え、主は奪う。」1:21とあります。また「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」2:10 とも有ります。また別のところには「育ててくれたのは神である」との記述もある。よく考えてみれば確かに私は畑を耕し肥料を入れ植える準備をして、種を蒔き、水をやり初期にはお世話もしました。しかし土の養分を与え、雨を降らせ、太陽を上がらせ、すべての条件を整え、成長、育ててくれたのは神様でした。従ってすべての作物も育てられた神のもの、私は神よりお預かりしているカボチャ。それを神が私から取り上げ猿に分け与えたからと文句が言えるのか?。同じくヨブ記に「神が奪うのに誰が取り返せよう。何をするのだとだれが言えよう。」とも有ります。と言うことですべては御心のままにと諦めました。ただ、来年は少なくとも坊っちゃんカボチャは作るのをやめようと決心しました。ここで学んだことは、自分の力でカボチャを作っているのだ、あるいは、これは俺のカボチャと言う高慢な思いを捨てると言うことでした。(3)に続く🤗。

かぼちゃをめぐる猿との闘い(1)

かぼちゃをめぐり猿との闘いが始まったのは4年ほど前からでした。

山奥なので鹿は当たり前に出て野菜の茎やら葉っぱやら食べられます。その対応も大変ですが基本的にはネットなどで対処出来ます。一度、イノシシにサツマイモを全部食べられたことがあります。朝、畑の見回りに行ったらサツマイモの畝がブルトーザーにでも起こされたように荒らされておりサツマイモが全部食べられていました。その様は初めての体験でありイノシシとも知りませんでしたので「何が起こったのだ」と悔しさより怖さを感じたものです。まあそんな山奥の農業で獣には慣れていますが、4年前くらいからそれまでいなかった猿が現れました。

7月の下旬のある日午前中の農作業を終え、昼食、一休みした14時頃畑に行ってみると、どうも坊っちゃんカボチャの棚の様子がおかしいと思い、よく見るとカボチャがだいぶ無くなっているのに気がつきました。そして山へ通じる道をネットで遮っているのですがその遮ったネットの前にカボチャが2、3個落ちているのを見つけました。猿だ、とうとう猿がやってきた。これはショックでした。結局他に作っていた大きいカボチャもやられ、都合大きいカボチャ15、6個、坊っちゃんカボチャ70、80個がやられました。そしてその一週間後再び猿登場、残りの坊っちゃんカボチャを全部食べられてしまいました。大変なショックで2、3日落ち込みました。今年のカボチャは全滅、ここまで大きくなってきて7月下旬には収穫も始まるのに…。この戦いは長くなるので(1)はここで休憩続きはまた書きます。

2019年8月31日 (土)

オクラの花

オクラあのネバネバしたやつです。多くの方が食べたことはあると思いますが、花は見たことない人もいるかと思い写真載せます。これが意外と言ってはオクラに怒られますが、綺麗です。神様がこんなに綺麗な装いをお恵みくださいました。オクラに変わって感謝します。

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アイコへのオマージュ

色気ないんです。アイコはミニトマトの名前です。少し皮が硬くミニトマトの代表千賀より甘味も少し薄いかなと、それで私もどちらかと言えば今日までは千賀の方を好んでます。お店に出回るのは殆ど千賀の系列かと、それであまり見かけたこともない方も多いかも知れません。ところが8月も終わりに近づいた今頃になると味が変わります。甘味がグーンと増してきます。食感も少し変わって来ます。不思議ですがこれが今までと同じ木になったアイコなの?と言うくらい甘くなるのです。すると私はその甘さの虜になります。アイコへの恋に落ちます。原因は分かりませんが気温の関係でしょうか?百姓の特権としてこの幸せをお許しください。そして今晩もまたアイコへの恋に落ちて行くのでしょう。

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2019年8月30日 (金)

風呂行って来ました

今日も朝から雨、一日中雨の予報。昨日、渓流釣りも行ったので今日は久しぶりに風呂にでも行く事にしました。いつも行く風呂は登山客が割と多く、8月は帰省客と相まって混んでいることが多いので敬遠しており、久しぶりの風呂となります。

それならと今日はゆっくりと風呂に入ってこようと朝、10時30分出発。まずは風呂、サウナ、水風呂、露天風呂と40分ほど入り、一旦出て食事処へ行って食事、休憩所で久しぶりに新聞を読んで世間の動きに触れます。自分は新聞も取っていないのでこんなもんです。

さてこれからゆっくり入浴。風呂、サウナ、水風呂、露天風呂とローテーションをこなします。それから丁寧に髭剃りもします。これらを約2時間かけて終了。雨ということもあり風呂は比較的混んでいましたが、田舎の風呂、都会のように洗い場の空くのを待ちながらの入浴なんてことはありません。平日の昼過ぎに行くといつも居る年金暮らしの(?)おじさん、お爺さんたちは今日も居て、いつものようなペースでのんびりお風呂を楽しんでいます。帰宅したら15時前でした。こうして体も心もまったりとする時間を過ごせました。今日1日の楽園に感謝!

枝豆への惜別の歌

居酒屋の定番おつまみ、枝豆。私は都会で暮らした約40年の間、お酒は大好きでよく居酒屋には行きました。でも定番の枝豆は頼んだことがありません。美味しいとも思わず、どちらかといえばグリーンピースご飯と合わせて嫌いな部類でした。ちなみにそれ以外は特に好き嫌いはありません。一度だけ船橋の農家からいただいた枝豆は美味しいと思い、これは鮮度の問題なのかな?と思っていました。

50代後半、山奥に住むようになり自分の畑で枝豆を作りました。食べる分だけ取ってすぐに茹でます。食べてみてビックリ!美味しい。本当に美味しい。なんとも言えない甘み、他に比べようの無い甘み。そして食感。神様は枝豆をこのような味に造られたのに、今まで私はそれを知らず、どちらかと言えばそれを遠ざけていました。今、枝豆は枝豆の本来の姿となって私に現れてくれました。

その枝豆も今年の分は昨日の収穫で終わり、8月14日から食べ始め、昨日で終わり。寂しさの混ざった悲しみを禁じ得ません。今年の枝豆は終わりました。え、「もっと作ったらいいじゃないかって!」いやいや、これでいいんです。「吾唯足知」です。

これが枝豆への賛歌、惜別のうたです。枝豆よ神の栄光をありがとう! 

2019年8月29日 (木)

渓流釣り

今日は昨日の雨も上がり渓流釣りには良い条件だと、一方夕飯のメインのおかずも無いところから渓流釣りに出かけました。ところがさっぱり釣れず、このままだと今日の晩ご飯はいつものキュウリとトマト、それにピーマンツナ炒めになると少し意気消沈。それでも神様は見捨てられませんでした。最終的には3匹釣らせていただきホッとしました。恵みに感謝します。すべては御心のままに!感謝😘

雨にも負けず

賢治の有名な詩「雨にも負けず 風にも負けず…欲はなく決していからずいつも静かに笑っている…東に病気の子供があれば 行って看病してやり…そういうものに私はなりたい」

高校生の頃この詩を読んだとき、冒頭の有名な句が頭に残り、これは頑張り屋の詩、頑張る人を応援する詩だ、と思いました。

歳をある程度とった頃、40代の頃からこれは賢治が本当に理想の生き方として、自分の目標とする人間像として描いていた詩だと思うようになりました。しかも必死になってそのように生きようとしてでもいきつかなかった。賢治は当時としては比較的豊かな家に生まれたにもかかわらず、本当の幸せを求めて人生を真剣に生きた人、最愛の、唯一自分を理解してくれていた妹を病気で早く亡くし、この時の詩「永訣の朝」も大好きな詩です。賢治と妹の心の通い合い、そして自分のことより相手を思う愛にも泣けます、死を前にした妹の「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる」 と言う箇所も泣かされます。そうして、傷心した旅で生まれたのが銀河鉄道の夜、そしてその中で「本当の幸せ」って何だろう?何処までも本当の幸せを求めて行こうと言う。そしてこの言葉は、さそり座の話の後に出てくる。

そして「雨にも負けず」、賢治は法華経の熱心な信者であったようです。私は法華経につてはあまりよく知りませんが、多分自分より他人の幸せを求めていたのかと思います。人は何よりもまず自分のことを大事にします。特に個人主義、自由主義の現代はこれが当たり前の時代かなと思います。でも多分賢治は自分の幸せとは何か?を、つきつめてつきつめた結果、自分の幸せとは周りの人の幸せを思い、そのためにできることは何でもしようと言うところにたどり着いたのでは。?それも他人の幸せに尽くす自分の心に他の人の幸せのためなど、そのような思いを一切持たずに(無心に)。これは聖書の最大の教え「隣人愛」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と同じ事かと。

賢治の雨にも負けずを読んでいると賢治は自分はスポットを浴びない陰に慎ましく居て、自分を捨てて、困っている人、病気の人…etc.いわゆる弱い人に尽くそうとする思いが伝わって来ます。それでいて最期は、人からはほとんど相手にもされない「そういうものに私はなりたい」と。  泣けます。そして感謝‼️

2019年8月28日 (水)

誕生日

今日、8月28日は誕生日です。2016、8、28日、洗礼を受け生まれ変わりました。この世には死んで霊の国に生まれました。女房にも娘にも反対されました。娘は嫁に行ってあまり会うこともないので文句も言われませんが、女房には今も時々嫌味を込め非難の言葉を浴びせられます。まあ、普段は山奥に引きこもり一人暮らしなので問題はないです。また女房は都会で孫の世話に喜びを見出しており旦那のことなど普段は眼中にないのでこれも助かります。

老人になり、この世の生活でも概ねこの世的な意味では幸せな生活をしていたのに50才を過ぎ何故一人山奥の暮らしを選び、洗礼まで受けたのか?女房のこと、子供のこと、生活の不便さいろいろありましたが、それでもこれを実行しなければ、多分自分はこの世に生を受けた意味も知らず、人生を不完全燃焼のまま終わり世を去る、と言う切実な思いで実行しました。ここに至る魂の遍歴はおいおいブログします。

今日は、何より誕生日おめでとう!と、自分で自分に祝福をおくります。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」  ヨハネ7:37

「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」                             エゼキエル36:25〜27

2019年8月27日 (火)

よく見ればなずな花咲く垣根かな=芭蕉

今朝、聖書を読んでいて突然浮かんだこと。

このタイトル名は芭蕉の句です。若い時に読んで感銘し、また教えを頂いた句です。なずなは当たり前にそこに咲いている。多くの人は気がつくこともなく何かの目的に向かって足早に通り過ぎる。しかし芭蕉はそんななずなに目を止め、心を寄せこの句をよまれた。素晴らしい感性と、それを不変の世界へ高める力。当時私はこう考えていました。人間はピカピカに光る鏡のような心を持ってこの世に来る、しかしこの世で生活するうちにその心が、ホコリや誇りや色々な欲この世のしがらみ仕事世の煩わしさ…etc.によって曇り、いや、かさぶたによって覆われてしまい、忙しく飛び回る。本当は何処へ向かっているか知らず、そこにあるものをあるがままに見ることができなくなっている、その美しさに気が付かない鈍感な感性となっているのではないかと。世はあるがままにある。しかしそこに住む私たちにとって一人一人の見る目によって世は変わって見えるのではないかと。

それで私のこれからの人生で成し遂げねばならないのは、この私のこころにへばりついたかさぶたを一つ一つ取り除きもう一度ピカピカのこころを取り戻すことだと。ちゃんと立ち止まって、なずなを見る心を取り戻すことだ、なずなに心を通わせ、なずなに心を向けてもらいその一瞬の心の通い合う瞬間に永遠を見る事の出来るような、そんな心を取り戻す事だと言い聞かせ力を注いで来ました。

ところが今朝、敬虔と言うことを聖書と共に考えていた時、ふとこの句のなずなのようかなと心に浮かびました。そして今までこの句をいつも芭蕉の立場で考えていましたが、なずなの立場からはどうなんだろうと。なずなは言葉を話さない、雨、風、日照りに耐え、ただ定められたその場所にいる。私たちに、私を見て、とも言わない。私、綺麗でしょとも言わない。ただそこに居て作られた方の意図のままそこに居る。ぺんぺん草と言われながら、雑草として邪魔にされ少し脚光をあびるのは春の七草としてかな?でも目を覚ましている人はなずなの美しさに出会う、そしてこころに何かを与える。そう、星の王子様とキツネのように心を通わす。これってまた、 賢治の「日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに 私はなりたい」に何か通ずるものありませんか? 

長くなりましたが、そんな訳でなずなのように自分を捨ててただ造り主の御心のままに生きたいと祈りました。🤐