2019年8月28日 (水)

誕生日

今日、8月28日は誕生日です。2016、8、28日、洗礼を受け生まれ変わりました。この世には死んで霊の国に生まれました。女房にも娘にも反対されました。娘は嫁に行ってあまり会うこともないので文句も言われませんが、女房には今も時々嫌味を込め非難の言葉を浴びせられます。まあ、普段は山奥に引きこもり一人暮らしなので問題はないです。また女房は都会で孫の世話に喜びを見出しており旦那のことなど普段は眼中にないのでこれも助かります。

老人になり、この世の生活でも概ねこの世的な意味では幸せな生活をしていたのに50才を過ぎ何故一人山奥の暮らしを選び、洗礼まで受けたのか?女房のこと、子供のこと、生活の不便さいろいろありましたが、それでもこれを実行しなければ、多分自分はこの世に生を受けた意味も知らず、人生を不完全燃焼のまま終わり世を去る、と言う切実な思いで実行しました。ここに至る魂の遍歴はおいおいブログします。

今日は、何より誕生日おめでとう!と、自分で自分に祝福をおくります。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」  ヨハネ7:37

「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」                             エゼキエル36:25〜27

2019年8月27日 (火)

よく見ればなずな花咲く垣根かな=芭蕉

今朝、聖書を読んでいて突然浮かんだこと。

このタイトル名は芭蕉の句です。若い時に読んで感銘し、また教えを頂いた句です。なずなは当たり前にそこに咲いている。多くの人は気がつくこともなく何かの目的に向かって足早に通り過ぎる。しかし芭蕉はそんななずなに目を止め、心を寄せこの句をよまれた。素晴らしい感性と、それを不変の世界へ高める力。当時私はこう考えていました。人間はピカピカに光る鏡のような心を持ってこの世に来る、しかしこの世で生活するうちにその心が、ホコリや誇りや色々な欲この世のしがらみ仕事世の煩わしさ…etc.によって曇り、いや、かさぶたによって覆われてしまい、忙しく飛び回る。本当は何処へ向かっているか知らず、そこにあるものをあるがままに見ることができなくなっている、その美しさに気が付かない鈍感な感性となっているのではないかと。世はあるがままにある。しかしそこに住む私たちにとって一人一人の見る目によって世は変わって見えるのではないかと。

それで私のこれからの人生で成し遂げねばならないのは、この私のこころにへばりついたかさぶたを一つ一つ取り除きもう一度ピカピカのこころを取り戻すことだと。ちゃんと立ち止まって、なずなを見る心を取り戻すことだ、なずなに心を通わせ、なずなに心を向けてもらいその一瞬の心の通い合う瞬間に永遠を見る事の出来るような、そんな心を取り戻す事だと言い聞かせ力を注いで来ました。

ところが今朝、敬虔と言うことを聖書と共に考えていた時、ふとこの句のなずなのようかなと心に浮かびました。そして今までこの句をいつも芭蕉の立場で考えていましたが、なずなの立場からはどうなんだろうと。なずなは言葉を話さない、雨、風、日照りに耐え、ただ定められたその場所にいる。私たちに、私を見て、とも言わない。私、綺麗でしょとも言わない。ただそこに居て作られた方の意図のままそこに居る。ぺんぺん草と言われながら、雑草として邪魔にされ少し脚光をあびるのは春の七草としてかな?でも目を覚ましている人はなずなの美しさに出会う、そしてこころに何かを与える。そう、星の王子様とキツネのように心を通わす。これってまた、 賢治の「日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに 私はなりたい」に何か通ずるものありませんか? 

長くなりましたが、そんな訳でなずなのように自分を捨ててただ造り主の御心のままに生きたいと祈りました。🤐

2019年8月24日 (土)

少し秋めいて

今朝は15度、肌寒いです。が、良い天気になり朝、まず峠を越えてウオーキング、山道から仰ぐ空が気持ち秋めいて感じます。帰ってストレッチ。それから広い庭(?)に除草剤散布、普段は除草剤は使わず一本一本抜いているのですがこのところの雨と暑さで草が沢山出たので流石に除草剤。本当はヘッセの「庭仕事は瞑想である」に習って一人、無念無想雑草抜きは瞑想、趣味なのですが…。

それからカボチャの収穫、ピーマン収穫、赤ネギに追肥、土寄せと農作業をこなしました。と、充実した半日を過ごせました。感謝

2019年8月23日 (金)

雨音を聞きながら

今朝は明け方から本格的な雨。雨音を聞きながら布団の中にいる、これがなんとも心地よく癒される。山里なので家の周囲はほとんど植物だけ、庭も小さい小石をひいただけ。だからか雨音が本当に心地よい。これぞ至極の音楽かhappy01。しかしそれでも年寄りは悲しい😢。この心地よさの中に浸り続けることは出来ず5:30には起き出す。そして日常の自分の思いの中へ引かれていく。weep

2019年8月22日 (木)

真の幸せ

8月17日に「本当の幸せ」と言うタイトルで賢治の求める本当の幸せって何だろうとブログしましたが、今日聖書の中にこんな御言葉を見つけました。

「真の幸い」と言う箇所にこのようにあります。ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した体、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

逆説かと思いますが、幸せとは自分を捨てるところにあるのかと…。しかしこれがなんとも難しい。自分を捨てることはなかなか出来ないよね。confident

渓流釣りと宴会

当エリアの渓流釣りの期間の期限が近づいてます。(9月30日)今年は色々ありまだ16回しか行けておらず渓流釣りが愛おしく思われ少し焦り気味に渓流通いしています。昨日も渓流釣りに行きました。いつもは自分が2回ほど食べられる量、大きさにもよりますが2、3匹釣れれば帰って来ますが、今日はいつもお世話になっている弟夫婦にも食べていただこうと11匹ほど釣りました。

早速帰宅後連絡すると17時前頃から一杯やろうとお誘い。一人暮らしの老人は普段自給自足の清貧の生活をしており、つい煩悩が目覚め喜んで招きに応じ宴会となる。日本酒も美味しく締めに弟の打った蕎麦も美味しくすっかり満足の夕飯となりました。

神様が育ててくださり恵みとしていただいた渓流魚でこんな贅沢良いのかと少しの反省も。でもこうして近くに足を伸ばしただけで渓流魚に恵まれる環境と自由に釣りに迎えるこの山奥の自由な一人暮らしに感謝します。また、すぐに欲に負けてしまう弱い私に反省と、私の心に清い霊をとの祈り。こうして沢山のものに恵まれた1日が終わります。今日1日の沢山の恵みに感謝!

2019年8月19日 (月)

真理とは何か

ピラトは言った。「真理とは何か。」

これはイエスが死刑になる前ピラトから尋問を受けた時、イエスは「わたしは真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と答えた。その言葉に対するピラトの言葉です。

私たちもこれが真理だなどと言って小難しい発言をする人に「それは一体どう言うこと?真理って一体なんなんだい?」などと茶化すことが無いでしょうか?この世の圧倒的に多くの人はいわゆる常識と言われるその時代に多くの人がそうだと思うことが正しいと思って生きている。真理などということを殆ど考えた事もない。従って真理がどうのと言われても戸惑うだけである。つまりピラト側の人間ということになる。別の言い方をすれば「そんな難しいことをごちゃごちゃ言ったって何の得になるんだい?飯のおかずにもなりゃしない。」などと発言するでしょう。

しかし私が思うに、この世にはこの世的幸せ、例えば地位、財産、名誉、健康…etc.だけでは満足できない人、いやむしろそんなものには背を向けて、もっと絶対的に信じるに値するようなもの、例えば真理を追い求める人がわずかにはいる。否、多くの人も魂の深いところでは皆そのようなものを求めているが(なぜなら人は永遠を思うように作られているのだから)忙しい日々にその心は埋没しているのかもしれない。

山奥暮らしの孤独な暇な老人の独り言とお笑いください。「真理とは何か。そんなものが一体何になる。」😅

2019年8月18日 (日)

小芋の煮っころがし

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ジャガイモ掘りすると小さい芋がどうしても出ます。この小さい物を煮っころがしにするとおやつにも小腹の足しにもなりかつ大変美味しいです。この時期の芋は皮が柔らかいので皮ごと食べられます。小芋を皮付きのまま洗います。それを茹でた後醤油、みりん、砂糖等で味付けします。調味料を絡ませて出来上がり。夏の夕暮れ時、枝豆と小芋の煮っころがしをツマミにビール🍺を一杯、最高です。夕暮れと老人とビール、神様が恵みくださった枝豆、小芋、そして山里の空気、他に何をか求めん!ほぼ自給自足の百姓の特権です。付け加えるとこの枝豆、庭の畑からの取り立て、都会にいた時はどちらかと言うと枝豆は嫌いな方でした。ところが今や枝豆は毎年必ず作りいただく、枝豆大好きです。気候その他の環境が与えてくれる恵みです。感謝!

さて、今日も夕暮れ時が近づいて来ます。もう少ししたら枝豆でも取って準備を始めますかsmile

2019年8月17日 (土)

本当の幸せ

でも「本当の幸せ」って何だろう?宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節。

賢治は短い生涯を本当の幸せを求めて歩んだのだろう。最愛の妹を若くして喪くし自分も病気に苦しんだなかで本当の幸せを求めて。一般的に人は健康、財産、地位、名声、家族円満、評判が良い、などなどを幸せと言う。ではそれらの状況にない人は幸せになれないのだろうか?それらのものは自分の努力などではどうにもならないことも多い。では生まれた環境等に恵まれていなければ幸せになれないのだろうか?賢治はどちらかと言えば財産、地位等、それらに恵まれている家に生まれた。しかしそれに背を向けて自分の本当の幸せを求めた。

イエスは言われる。「その水を飲むものはまた渇く」と。一般的に人が幸せと思われるものの多くはそこで満足することが無い、手に入れてしまうともっと、あるいはもっと別のものをと求める。

では「本当の幸せ」とは何だろう目に見える状況、環境などに左右されない、健康、病気、などに左右されない永続的な「本当の幸せ」って?

2019年8月16日 (金)

眠られぬ夜のために

年寄りの夜は早い。10時前には就寝、一方トイレも近い。トイレに起きるともう程々に睡眠時間も確保された後であり眠れない。従って夜明け前に目が覚めて起きるには暗く、眠られぬ時間を迎える。こんな時多くは今日の事、何か心配事が頭の中で駆け巡り、悶々と布団の中で眠られぬ時間を過ごすことになる。そこでヒルテイの出番となる。ヒルテイ著「眠られぬ夜のために」の出番である。

彼はスイスの哲学者であり国際法の大家でクリスチャンである。眠られぬ時間を自分の思いに身を委ねて悶々とするよりこの静かな時間を普段疎かになりがちな内的生活の為の時間とし人生最上の宝を手に入れようと提案する。聖書の一節を取り上げたり、ダンテの神曲をとりあげたり、それらを365日の日めくりとする事で短い文章の中に素晴らしい言葉が詰まっている。

そもそもキリストも「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服より大切ではないか。」「あなた方のうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と言っておられる。

私も夜半に目が覚めて眠られない時今日もヒルテイに助けを求め彼の提示してくれる言葉に思いを馳せる。そうしているうちに知らず知らずまた眠りの中に落ちていく^_^。