よく見ればなずな花咲く垣根かな=芭蕉
今朝、聖書を読んでいて突然浮かんだこと。
このタイトル名は芭蕉の句です。若い時に読んで感銘し、また教えを頂いた句です。なずなは当たり前にそこに咲いている。多くの人は気がつくこともなく何かの目的に向かって足早に通り過ぎる。しかし芭蕉はそんななずなに目を止め、心を寄せこの句をよまれた。素晴らしい感性と、それを不変の世界へ高める力。当時私はこう考えていました。人間はピカピカに光る鏡のような心を持ってこの世に来る、しかしこの世で生活するうちにその心が、ホコリや誇りや色々な欲この世のしがらみ仕事世の煩わしさ…etc.によって曇り、いや、かさぶたによって覆われてしまい、忙しく飛び回る。本当は何処へ向かっているか知らず、そこにあるものをあるがままに見ることができなくなっている、その美しさに気が付かない鈍感な感性となっているのではないかと。世はあるがままにある。しかしそこに住む私たちにとって一人一人の見る目によって世は変わって見えるのではないかと。
それで私のこれからの人生で成し遂げねばならないのは、この私のこころにへばりついたかさぶたを一つ一つ取り除きもう一度ピカピカのこころを取り戻すことだと。ちゃんと立ち止まって、なずなを見る心を取り戻すことだ、なずなに心を通わせ、なずなに心を向けてもらいその一瞬の心の通い合う瞬間に永遠を見る事の出来るような、そんな心を取り戻す事だと言い聞かせ力を注いで来ました。
ところが今朝、敬虔と言うことを聖書と共に考えていた時、ふとこの句のなずなのようかなと心に浮かびました。そして今までこの句をいつも芭蕉の立場で考えていましたが、なずなの立場からはどうなんだろうと。なずなは言葉を話さない、雨、風、日照りに耐え、ただ定められたその場所にいる。私たちに、私を見て、とも言わない。私、綺麗でしょとも言わない。ただそこに居て作られた方の意図のままそこに居る。ぺんぺん草と言われながら、雑草として邪魔にされ少し脚光をあびるのは春の七草としてかな?でも目を覚ましている人はなずなの美しさに出会う、そしてこころに何かを与える。そう、星の王子様とキツネのように心を通わす。これってまた、 賢治の「日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに 私はなりたい」に何か通ずるものありませんか?
長くなりましたが、そんな訳でなずなのように自分を捨ててただ造り主の御心のままに生きたいと祈りました。🤐
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