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2021年2月

2021年2月11日 (木)

徒然なるままにー欲望の果て

徒然なるままにー欲望の果て

先日、NHKスペシャル、未来への分岐点を見た。2030年に食糧不足が顕在化して人の存亡に大きな影響を与えることになる分岐点が今だと。そしてこのままの食料システムが続けば2050年には食糧価格は暴騰し食料争奪戦がおきていると。食料が高騰しても金持ちは今まで通り購入できるが一般の人々は購入に苦労して貧しい食生活に陥る。人口増、飽食、無駄な廃棄、農作地の衰退、環境問題等によるもの。四、五十年も昔「成長の限界」と言う本を読んで大きな衝撃を受けた事を覚えている。今、山里での出来るだけの自給自足をし昔ながらの作物作り(刈草を堆肥に積み、化学肥料を少量に抑える)をするのも、この本の影響を受けているかと思う。しかしそれらの事象をよく見ていくとその本質的な問題点として「人間の欲望」にたどり着く。また、企業は増収増益を最大目標として個人の消費を煽るコマーシャルを流し続ける。その意味では2030年の分岐点はこの地球上で人間が幅を利かせて暮らしている以上必然的に起こることかと思われる。先進国では少子化とか言われているが、地球全体では人口は増え続けている。何十年か前に人口50億と言われていたがもう75億を越え、2050年には100億と推測されている。一方、人の食への欲望は止まるところを知らず、もっと美味しい肉を魚を、野菜をと、そして消費期限を定めその時がくれば廃棄する。勿論そのコストも売価に含まれる。一方途上国では食べる物に困り子供が死んで行く。農家も少しでも多く生産し売上を増やそうと化学肥料を大量に使う、短期的には生産が増えても土地は痩せていきやがて生産量も減少する。また人は快適に過ごそうとの欲も尽きない、それらの全てが環境問題につながり、地球の砂漠化へと進む。大量消費、経済最優先の世界だ。人類は地球に養われて繁栄して来た。全てのベースは地球にある。しかし人類の欲によってその地球は壊されていく。禅語に「吾唯足知」と言う言葉がある。また聖書にも「今あるもので満足しなさい」と言う言葉がある。人類が、と言うよりも先進国の人々が欲望の追求を止め、足(たる)を知って生きる暮らしをするだけで2050年の地球を救えるのだろうが、これが不可能な程に難しい。人はこの世の暮らし方に慣れきって麻痺してる。先進国は自国の豊かさを最重点にしている。恥ずかしくも無く○○ファーストと言い、自分達が良ければそれで良いと。それを変えることは麻薬をやめるくらい難しいみたいだ。「成長の限界」は1972年の本である。それ程の昔に警鐘を鳴らしていたが人は止まらない。確か数十年前にアメリカのゴア元副大統領が環境問題の映画を作ったか。せめて目を覚ました人だけでも、自分の欲望を制御して暮らしたい。そう思わされた番組でした。

2021年2月 7日 (日)

徒然なるがままにー加齢ー

最近何かと「加齢」と言う言葉に会う。先日の脳ドック、指摘された箇所は「まあ、加齢ですから…」そして5日のメガネストア「加齢が進んで目に問題がありレンズを変えても視力は上がりません。眼科で診てもらってください」そして眼科「加齢で白内障が進んでいます。手術した方が良いでしょう。」と言った具合。生あるものには死があり、生まれたその日から死に向かって1日1日と歩んで行く。体が成長しやがてピークを迎え今度は老いへの下り坂を進む。これはまさに生あるものの「定め」と言うべきもの。その様な事を実感する日々である。もっとも体はそんな訳で日々衰えていきますが、内なる新しい人は日々成長して衰えることを知りません。聖書に「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」コリII 4:16。とあります。ですから、体の衰えに憂えることなく、日々「霊の」「魂の」成長に邁進しようではありませんか!聖書は続いて「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」とあり、さらに続けて「目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するから」と続きます。

70歳の老体の衰えを憂うより、日々霊の成長に目を注ぎこの世での戦いに勝利出来る様に邁進しましょう。そして金メダルを手に入れるのです。老害では無く、霊の成熟した老人になりたいものです!勿論この世が与えてくれる様な金メダルではなく、神からの「良くやった、良い僕だ」と祝福される金メダルです。

2021年2月 3日 (水)

徒然なるがままに!

煩悩具足の人間ーこのどうにもならないもの!

人は五感から入る情報によって、状況が満たされれば悪にも善にもなる者。心に映った情報に振り回されて自分の力では制御出来ずに引かれて行く、無力にも引かれていく弱いもの。どう反応するかはそれぞれの人の心に蓄積された縁(経験的自我とでも言うか、しかも自分でコントロールしてできたものでは無い、どうにもならない縁)による。いずれの行を持ってしても克服できない縁の力であり、我が身は及び難き身である。ある状況に会えばどんなに普段いい人だと言われる人も悪を犯す。逆に善も行う。それを自分の力ではコントロールできない。主体性を持って自分の日々をコントロールしているように思っていても全て情報に振り回されて生きておりいわゆる「迷える子羊」である。人間とはそのような頼りないものである。

そのように自分を見つめてみると自分は一生煩悩具足の愚か者、愚禿である。どうにも救われない愚か者である。いずれの行も及び難い無力の人間である。そしてこれらの情報、自分の思考は全て見えざる大きなもの、全宇宙を経綸する意思(力を備えた精神的エネルギーと私は感じる=神)とでも言うものに(神、阿弥陀様)支配されている。と、考えるとこの無力な私に出来ることは「祈る」ことだけ、せめて罪を犯さなくて良いようにその見えざる力に祈りお願いすること。

しかしその祈りは応えられるか否かはその力()の意思、計画による。それ故に神に祈り、お願いし、あとは御心にただ従うしか無い。例えそれがこの世的に良いことであろうと、災であろうと。従うしか無いと言うよりもむしろ否応無く従わされる。とでも言った方が良いか?自分の祈りを超えた神の計画があり、その計画が優先されるのだから。だとすれば無力を嘆くより、ただへり下り、自分を全て神に放り投げ、委ね切って後はただお任せする。私に出来ることはただ全能の神に祈る事だけである。でもその力である神は私を愛していてくださるのだから、どのようなことになろうと、それは神様から見て私には良いことなのだろうと、おおらかに安心して暮らす。ただ信心を要とすと。ただ信仰を持って祈り、神にお委ねし、全ては御心のままにと静かに受けいるてゆく、心騒がせずに。それが人の一生。その様な中にあっても、願わくば「隣人を愛することが出来ますように」と祈る。でもその先には天の国が(あるいは浄土)がある。神はそこに受け入れてくださる。約束してくれている。そして人はそこで永遠の命をいただく。

日常の中で聖なるものになろうと努力はする。しかし肉に住む間、完全に聖なるものになることはあり得ないので濁なる事をしても落胆することなく祈る。山の(人生の)暮れに徒然なるがままに思う。老人我一人。

2021年2月 1日 (月)

脳ドック!

今日は5年ぶりに脳ドックを受けて来た。超伝導MRIとか言う装置で受けるのだが、どうもあの狭い筒の様な中に頭を入れるのはちょっと不安になる。閉所恐怖症と言うやつですかな?本番になればまあ何とか耐えられるが、その前にあの狭い中に入っている事を想像すると怖くなる。しかも時間が15分くらいかかる。工事現場の音の様なガンガンと言う音を聞きながら入っている。むしろその音さえ変化があって助かるくらいだ。そして結果発表!「まあ特に問題はないでしょう!一部にあるこの白い部分は加齢とともに仕方ないでしょう。また、5年後に検診を受けてください。」ほっとするが、最近はこの「加齢による…」がつくことが多くなった。まあ字の如し、歳をとっていけば体も徐々に衰え、体のあちらこちらに劣化が見られると言うことで仕方のないことでしょう。山里で農作業をして作物を育てていると、それぞれに芽が出て、青々と成長する。しかしよくしたもので時がくれば、葉が枯れて来て寿命を迎える。人間もそれと同じだな、と思う。生まれ、成長し、やがて老いていく。あまりいつまでも何処にも衰えが無く元気なのも人類にとっては迷惑な話だ。生まれるに時があり、死ぬるにも時がある。神のなさることは皆時にかなって美しい!静かにその摂理に従うことこそ善き老境というものかな。