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2021年1月

2021年1月30日 (土)

見えるものではなく…。

「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」コリニ4:18

人は皆、見えるものに目を注いで日々を生きています。そして見えるものを信じている様に思われます。なぜなら見えるものは今実存として「其処にある」からです。そして次々に映る見えるものに移り行きして、その中で生きて振り回されています。しかし目に見えるものはやがて過ぎ去ります。人間もやがて死にこの世から退場します。また形あるものはやがて壊れます。人の心もその目に見えるものによって影響を受け、移り行く。しかし、目に見えないものは過ぎ行かない。なぜなら形も姿もないから。しかし形がない故に人はまたそれを信じることが難しい。しかし信じた者にはそれは永遠に存続する。目に見えないものとは真理と言われるもの。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」ヘブル11:1 信仰とは目に見えない事柄を確信し信じ抜く事です。それ故、信じた人にはそれは永遠に存続する確信である。見えないが故に困難であるが、見えないが故に信じた人にとって確実、絶対である。時に人は例えば男と女とか、白人と有色人種とか色々に区別される。目に見えないので分かりずらいが、信仰のある人と信仰のない人と言うのも大きな根本的な違いである。この豊かな現代にあって信仰などと言うものは無用なものであり少数民族かもしれない。しかし、わたしの正しい者は信仰によって生きる。などと徒然なるがままに山の暮れに思う。

2021年1月27日 (水)

老いを感じて!(2)

ある本にこんなことが書かれていました。人はこの世に外交官としてやって来る。つまり母国からこの国へ派遣されると言うわけです。外交官ですからやがて必ず母国へ戻らなくてはなりません。派遣されたこの国で外交官は、この国の言葉を習得し、この国の文化、歴史、食べ物、遊び、楽しみ等を学びながら母国のためにその任務を遂行します。この国の人々と交わり友好に努めながら、自分の家族の生活を築きます。ただ一つ、この国に浸り切ってはいけません。何故ならいずれ母国に戻らなければならないからです。この国での生活が楽しければ楽しいほど、この国に執着して母国へ戻る発令が来るのを恐れます。しかしどんなに恐れてもその発令は必ず来ます。この国での正しい過ごし方は、この国に浸り過ぎない様に、そして自分は外交官であること、いずれ母国に戻ることは確実であり、母国から外交官として、良くやったと言う評価を受けられる様に働き、そして次の発令を待つと言うことでしょうか。私も転勤族で、大体3〜4年で転勤を経験しました。転勤先で3〜4年の勤務期間が流れると、そろそろ自分も転勤かもしれないと思い、少しそわそわしたものです。しかし、私の勤めた会社の発令は必ず突然発令されるもので、その日までは全くいつ来るか分かりません。ただ多くの仲間の一般的な異動サイクルからそろそろだな、と勝手に思うものでした。その様に母国への帰還命令は、突然やって来るのでしょう!

こんな事を思い巡らしながら、確かに人は皆、外交官が異動で来る様にこの国に来るんだな、と思わせられました。ただ、外交官ですから、受けるのは「母国」での評価であって、この国での評価ではありません。この国で生活しながらもやがて来るその日に、母国の人事から「良くやった、良い僕だ。さあともに喜んでくれ」と言っていただける様な日々を送りたいと思いました。

2021年1月26日 (火)

老いを感じて!

今日、車を運転していて急にこの車の名称はなんて言ったか?と思いはじめた。ところがこの名称がなかなか出てこない。20分くらい運転しながら考えたが結局思い出せず、着いて車を止め確認して、なんだ、そうだよ、知っていたのに…。こんなことが時々起こる。認知症?いわゆるボケ?これ以外にも何かをする時、今までだったらしないようなミスをして、ああ、自分も老いたなと思うことがたびたび起こる様になった。また、耳も少し遠くなって来たかもしれない。人の話を「なに?」と聞き返すことが気持ち増えた様に感じる。体は毎日ウオーキングなどして元気であるが、色々な場面で老いを感じる今日この頃である。この老いがどんどん進んでいって、その時尚、もっと生きていたいと思うのだろうか?神様は人間を上手に造ってくださったのだろう。若い時は、今死にたくは無いと思い、しかし生あるものは必ず死ぬわけで、死を考えることはそれが苦しみであり、死にたく無いと思うわけである。しかし、歳を取り、老いを感じる様になり、自分でも老いることの実態を少しずつ知るにつけ、まあ、そうあとあまり長く生きなくてもいいなと思うようになる。神様は老いること、生きとし生きるものには終わりがある事を、少しずつ実感として教えてくださる。それらを受け入れながら静かに時を重ねて行きたいと思う。ブログのタイトルを考えた時、山の暮れと人生の暮れを重ね合わせて山の暮れと付けたが、その暮れを時々感じる今日この頃である。

2021年1月12日 (火)

この水を飲む者は…。

この水を飲む者はだれでもまた渇く。ヨハネ4:13

この言葉は聖書に出てくる有名なイエスの言葉。井戸に水を汲みに来た女にイエスが語った言葉。人は皆渇きを癒そうと水を飲む、水が無くては生きていけない。しかし人が求めて飲む水は一時の癒しに過ぎずまた次の癒しを求める。これは比喩的な話で、例えば人は楽しみを求めて旅行に出かける。買い物に出かける。仲間とのおしゃべりに出かける。趣味に出かける。恋人に会いに出かける。…etc。しかしこれらは一時の癒しに過ぎない。一時の楽しみである。終わって少し経てばまた次の楽しみを求め彷徨う。また世は次々と新たな楽しみを提案して誘なう。そして人はそれに誘われて入って行く。しかしまた永続性のある癒しには至らない。この繰り返しがこの世であり、経済中心の世である。

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。ヨハネ4:14

しかし神から与えられる水、楽しみは永続性がありもはや渇くことなく次々に楽しみを求めて彷徨うことは無くなる。神から与えられる水とは何か?一言で言えば「聖霊」もう少し狭く言えば御言葉、御言葉によって心のうちに宿る喜び、御言葉により人の心が造り替えられ精神的な喜びに溢れる様になる。それは心が造り替えられたことであり、もはや次々に楽しみを外に求める必要はなく、その心に居ることが喜びとなる。しかしこの心境に至るにはこの世の生活に、この世の君の教育に慣れた人には容易では無いと思われる。何よりもまず目を覚ます必要があるが、その目を覚ます機会があるだろうか?生まれた時からずっとこの世の君の教育に染まっている身にはその機会が与えられるのは稀なこと、この世の君は、人々にほどほどの楽しみを与え、自分から逃れない様に飼い慣らしている。人はそのぬるま湯にいつも浸かっていたいと慣らされている。それ故に神の選び、恵みが無くてはその目を覚ます機会さえ与えられないかと…。でもこの世の君の教えに慣れず、もっと絶対的な喜びを求めて彷徨い歩く者、大きな悲しみで心を打ち砕かれた人、いわゆる貧しい者にはきっと神がささやきかけてくれる。いつも戸を叩いていると。こちらに来なさい。休ませてあげると。そして神からの水をいただく。願わくば恵みにより霊の国で憩うことが出来ますように!

2021年1月 9日 (土)

ある日の雑記帳から(2)

蝶々さん:最後の武士の娘

昨夜(202081)Eテレで蝶々さん、最後の武士の娘、と言うドラマを見ました。引き込まれて最後まで(1130)見てしまいました。武士の切腹は敗北ではなく「美しく生きた証」と最後のナレーションにありました。主人公の蝶々さんはそのように生きてそして21歳で自害した武士の娘でした。この言葉と蝶々さんの生き様を考えさせられて、目が冴えてしばらく眠れませんでした。おかげで今朝は寝不足です。

私はこの世にあって「美しく生きている」のだろうか?又、今の世にあって「美しく生きる」とはどの様な生き方なのか?。考えさせられます。又、現代に生きる人が「美しく生きる」などと言うことを考えているのだろうか?「楽しく生きる」と言うことはいつも望んでいるだろうが

信じるものに殉死する。命より大事なものは自分の信じる信念。自分の命を大事にし、ただこの世で長生きするより、自分を捨て、信じるもののために生き、信じるものの為に死ぬ、信じる生き方が出来なければ死ぬ。信じる掟を守り通す。命を捨てて!歴史上の偉人と言われる人は皆、この信念を持っていたように思う。これがこの人間という動物に与えれれた、この世で生きるただ一つの気高い生き方なのではないか。コヘレトも最後に言っている。「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めをまもれ」これこ人間のすべて。と。それ以外のものは突き詰めればみな「空」であると。

2021年1月 8日 (金)

ある日の雑記帳から。

コロナで緊急事態宣言が出され、ステイホーム中、暇な時間をiPad で遊んでいたら昔書いたこんな記事が出てきました。ちょっとこ難しいですが、御覧あれ!しかし、肉の人はここに書かれたことではなく、ガースーに従って幸いを得よ!(笑)

神の慰めの書:p 118

聖アウグスチヌスは言う「主よ私はあなたを失うことを欲しなかった(あなたを欲した)、しかし、あなたと共に同時に被造物をも所有することを望んだのである(神の他に更にこの世的喜びをも求めた)。それは私の貪欲からであり、それ故にこそ私はあなたを失ったのである(神はご自分と共に肉の世のものを共存させ得ない)。あなたは人が真理そのものであるあなたと一緒に、同時に、虚偽なる被造物を所有することを許さない。と。

また「神のみを持って満ち足りない人は、貪欲に過ぎる」と言っている。

人は肉と霊からなる。霊にあって神と共にあることで全てが充足された平安の中にあり、それに満足せず肉の喜びをも求める欲、これは全て貪欲である。あとは全て御心とただ静かに受け入れることである。

それ故に人はこう言わなくてはならない「主よ、我が慰めなる神よ、もしあなたが私に、あなた以外の何ものかをお与えになるのでしたら、別のあなたをお与え下さい。なぜなら、私はあなた以外のいかなるものも欲しませんから」と。あなたが共にいてくださることが全てです。

神と共にあることがすべて。

海面が嵐によって荒れ狂おうと、なぎのように静かであろうと、深海が何ら影響を受けずにただ静かにそこにあるように、私の霊も目に見える世界がどうであれそれに左右されず、御心のままにと静かに受け入れ、神と共に平安のうちにあれ!

真に完全な人は、己自身に死、己自身の像を離脱し、神の意志の中へと形成される。これこそがその人の全浄福たるものである。このような人は、己自身並びにこの世の全てについては何の関知するところもなくただ神のみについて関知するのであり、神の意志以外の何事も知らず、また敢えて知ろうともしない。これが全身全霊で神を愛すると言うことでもある。

神と共に在り、ただ神にのみ従え!

「一切の被造物から離脱し、一切の被造物に(対する我が思いに囚われがなく、執着がなく、従って)貧しく乏しく無であることは、魂を高く神の中にまで運ぶのである。」しかし、このようなことは俗世に住む人間には不可能なことであり、余り気負わず、しかし神と共にあることを祈り、それ故に神がこの世のものから出来るだけ遠ざけてくださることを祈りながら生きることであるか?持ってこの世の全ての被造物に執着の薄い、貧しい者に造り替えていただくことである。それが魂の聖化である。

2021年1月 2日 (土)

あけましておめでとう!

2021年があけました。おめでとう!と言いながら、あまりおめでたくない年明けです。なんと言ってもコロナ、年末に東京は1300人台と一挙に大台を突破し、さらにどこまで広がるか分からない不安が覆っているからです。そんな禍の中、どうやって心、穏やかに暮らせば良いのだろう?良寛は「禍に遭うときには禍に会うのがよろしい」と越後の地震の時に言っています。それが禍の対処方法だと。良寛はその時点で曹洞宗の禅の修業を積んだ身、ある意味悟りを開いて越後での独居暮らし、そういう人はこのレベルの心境に至っているのかと思われる。しかし凡人は中々この心境に至って悠然と言うには至れない。法然、親鸞は全て阿弥陀様に委ねれば良いと…。ただ阿弥陀様を信じるを要とすと。キリストは自分の十字架を背負ってわたしに従えと言う。新年の始まりに、この心境に向かうことを自分の魂の道として、その道を進みたいと願う。それが今年、及び死ぬ日まで歩むべき道と定めたい。と考える2021年の初めです。