« この世に死んでいて、それでも生きているって? | メイン | トマトソース🍅 »

2020年7月15日 (水)

「心の貧しい人々…」

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」マタイ5:3

これは有名なイエスの「山上の説教」の最初に出てくるイエスの言葉。イエスの伝道活動が始まりガリラヤなどで行った奇跡が評判を呼び、沢山の群衆がイエスの奇跡を頼り、また当時ローマ帝国の占領下にあった人々がその生活の救いを求めて、この人(イエス)はイスラエルで昔より言われているやがて救い主が現れる、と言うその救い主かもしれないと、イエスのところに沢山の人が集まりました。そんな群衆を見てイエスは人々に向かって口を開きます。恐らく群衆は息を呑みどんな素晴らしい教えを頂けるのかと期待に胸を弾ませ最初の一言を待ったことと思います。

そのイエスの放った最初の言葉、それがこの「心の貧しい人々は、幸いである…」でした。群衆にとっては衝撃的な言葉だったと思います。推測するのに、これを聞いた人々は驚き、また何のことか分からなかったのでは無いでしょうか?何か政治的な救いに繋がるような言葉を期待していたでしょうに「心の貧しい人々は、幸い…」だって?何のこっちゃ?とでも言う感じでしょうか?弟子を含め皆この言葉が理解できなかったと思われます。いわゆる12使徒と言われる人たちでさえ、恐らくこの先何年もの間、イエスのこの言葉の本当の意味は理解されなかったと推測されます。この当時のイスラエルの人たちの望む最高に幸せと思われる、誰もがそこに住みたいと思われる「天の国」、それは心の貧しい人達のものだって!分からん!訳がわからん!と言うところでしょうか!

私も初めてこの言葉に出会った時、意味がわかりませんでした。でも、それまでにも仏教や精神世界のことを学んで来ていたこと、その後、聖書も幾度ともなく読み、また関連する本も学んだことから私なりにこのように理解するようになりました。これは仏教で言うなら「無」とか「空」に繋がることではないかと。心が貧しいとは心が貧乏、つまり心に何も無いという事、健康欲、名誉欲、財産欲、地位欲、食べ物のこと、人の目…etc.心に守るべき何の財産も無い、つまり心が空っぽ=貧乏、と言うことではないでしょうか!そしてその空っぽで空いている心に神が入ることが出来ると。色々な思いでいっぱいの心には神が入る隙間がない!水がいっぱいの水瓶にはもう水は入れられない。空っぽの水瓶に水はいっぱい入れられる。だから心を貧しくし空にしていればそこに神は(聖霊は)お入りになり住んでくださる。そしてそのような人は(そのような人の魂は)まさに天の国に入っているんだ、という事ではないでしょうか?この世に在りながら神の国に在ると言うことではないでしょうか。

聖書は書いてある言葉通りに理解しようとしても何が書かれているか、何を言わんとするか理解できないとある本に書いてありました。また、人は肉と霊とから成っていると言われます。聖書の言葉は肉の世の価値観では理解できない。あるいは大して興味の湧く本でもないかもしれません。しかし霊の世界のこととして読んでみると学ばして頂くことが沢山ある。まさに自分の魂のこととして読むことが大事かと。聖書の言葉は魂には「ご利益」(?)が在るがこの世的な意味ではいわゆる「ご利益」は無いかな(笑)と…。

そんなわけでこの「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と言う御言葉は聖書の中でも大好きな言葉ですし聖書の教えの真髄でもあると思っています。心を貧しくして聖霊と共に日々を過ごせればと思います。このような恵みに感謝します。山里の一人暮らしの老人の長口上とお笑いください。

コメント

コメントを投稿