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2020年7月 6日 (月)

「神の慰めの書」M・エックハルト。

梅雨の真っ最中で毎日雨が続く。農作業はお休み。渓流釣りには最適ながら水量が増しており危険も多いことから自粛。必然的に家の中で過ごすことになる。そんな雨の1日、M・エックハルトの「神の慰めの書」を読み返してみる。何度も何度も読み返した本でページを開くと「そうだ、そう思う」と同調する箇所や、「そう言うことなんだ」と言った箇所の棒線が至る所に見られる。そして余白にはエックハルトが指摘した聖書の言葉が書き写されてある。しかし何度読んでも難しい書である。昔から西田幾多郎をはじめ人間の精神(魂)に分け入った碩学の士が愛し研究し読み継いだ書であるが、一般的にはマイナーの書かと思われる。私も20年以上前に出会って以後、折に触れ読み返して来た。しかしいまだに全て理解できるに至らない。その精神性の高さは自分が学びを続けながら、1年に一回とか読み直し、まだまだ魂の未熟さを認識させられる鏡のような書である。しかし聖書を読み、思索を繰り返し、仏教書を読み、思索し、そして自分の内面を見つめ、自分の魂に分け入る時、創世記にある「神はご自分にかたどって人を創造された。」と言う言葉に慰められる。そして人は霊と肉からなり霊は果てしなく飛翔して神に僅かに劣るまでに成長する。そしてそこは神の庭でありその庭に憩う。神の慰め、憐み、精神的恵の庭に居て、いわゆる人智を超えた平安に至る。これこそ神の人間に対する究極の愛であり、慰めである。それもこれも神が私の魂を神に似たものとしてお造りくださったが故に、創り主のふところに帰り一体となると言うことの大いなる可能性かと思う?。雨の1日難しい書き込みとなりました。「その霊とか魂と言うのは一体何よ、少しは役に立つのか!」とお笑いください。(でも少しでも興味を持たれたら読んでみてください。)

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