趣味(1)山ーその4
私がひたすら山を愛した時代、少なからずの人は山に精神的な何かを求めていた。何故山に登るのと問われ「そこに山があるから」と答えた有名な言葉がありましたが、少なくとも私にとって山は単なるレクレーション、スポーツ、趣味と片付けられないものでした。まず、幼くして傷ついた心の癒しでした。そして思索であり、また一種の修行でした。確か串田の孫ちゃんに「山への愛と思索」とか言う散文集があったかと。また尾崎喜八も好きで彼のエッセイも山を思う時よく読みました。もちろん深田さんの百名山も。当時山と本による思索は深く結びついていたと思います。私はなぜ山に登るのと問われたら「そこに苦しみがあるから」とでも答えたか?或いは「汗とともにこの世の垢をぬぐい落とせるから」と答えたかも。単独行でテントまで背負うと2泊3日でリュックの重さは15〜20kgくらいになったと思います。背負うと腰にズシッとくるくらいの重さです。小さい頃父親、母親を続けて失い「諸行無常」が身に沁みていましたから私は山へ行く時は部屋の掃除をし、洗濯物を全部して、何かあっても恥ずかしくないようにして出発しました。登山口でバスを降りリュックを背負うと腰にズシッと来ます。その中を山道に足を踏み出します。今回の山への心配、不安、仕事のこと、好きな人のことなどが頭に浮かんでは消えまた浮かぶと言う時間を過ごします。30分で5分休憩を繰り返します。そうやって3時間4時間が過ぎ山の中腹から上に抜けて来る頃には最初考えていたような邪念は汗とともにぬぐい去られています。疲れも溜まって来てそんな雑事を考える余力も無くなっているのかも知れません。自分がそうやって空になって行きます。カッコよくいえば「無我の境地」ですか。そんな時、谷から吹いてくる風に当たる時直感的に「ああ、なんていい風なのだ」と感じます。本当にストレートに私の体に入ってきます。そしてさらに上に。道の端に小さな高山植物が可愛らしく可憐な花を咲かせてます。するとその花が「なんて可愛らしいのだ」とストレートに私のうちに入ってきます。それは前に書いた「よく見ればなずな花咲く垣根かな」の芭蕉の心境でしょうか。
この世にいながらこの世の垢が全てぬぐい去られたあの世にでもいるところで花を見ている、それはその花 にその花本来の美しさを見出した瞬間でしょうか。その花は神様が作られたままの姿でそこにいて造り主の栄光を表しているのでしょう。そう、私の山に登る目的はまさにこの時にあるのでした。それ故に単独行であり苦しみが必要でした。
テントサイトに着きテントを張り泊まりの準備が終わると、ウィスキーの小瓶を持って近くの岩に腰を下ろし少しいただきます。とにかく体は透き通るくらい綺麗になってますから少しで酔いを感じます。その状態でボーと山々の頂を眺め今日の行程をボーと思う。本当に至福のひと時です。だからヤッパリ単独行でないとダメでした。
これが私の山登り!「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう。」詩篇19:2〜5とありますが神の懐に抱かれるひと時です。
山を愛するとは、自分の思い、自我を捨てて山に向かい合うこと。
これで趣味、山についてはひと段落とします。感謝!
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