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2020年11月17日 (火)

蛍草 菜々の剣、最終回を見て!

今年の春、山里に出発するまでに菜々の剣を見終わることができず、最終回だけをビデオ予約して田舎に出発しました。約8ヶ月位田舎にいましたが、こちらに戻り早速ビデオで菜々の剣の最終回を見ました。「武士の娘としての誇り」これだけは命に変えても譲れないと言う心に心棒を持って生きる菜々、そしてこう言います。「武士の誇りとは、自分の正しいと思う道を命より大事に生きること」だと。そして勝てる見込みのない仇討ちに臨みます。

現代は皆沢山の知識を自分のうちに蓄え、その集積を経験的自我とでも言うならその自我に照らし合わせて日々を生きている。そして日々情報を取り入れてさらに知識を集積しながら自我を形作っていく。そしてその自我によって日々生きるのに必要な判断をしているが、よく考えてみれば借り物の知識の積み重ねがベースでありその判断が正しいか否かも定かではないのではないか?とすれば現代の人々はいかにふらふらとこの時代を、この時代に振り回されながら彷徨い生きているのだろうか?それに対して信念に従って生きる人は何か強さとか美しさとかを感じさせる。昔から偉人と言われる人は皆信念を持って生きていた。例えば西郷隆盛は「敬天人愛」であった。また、企業も昔は「家訓」と言うものがあり、ことに及んだ時はその家訓に従った。しかし今はその家訓もお飾りとなり「より売り上げを上げること、より利益を上げること。」それが企業のあるべき姿と、誰もがそれはそうだとそれに反論は出来ず、国も又、毎年GDPは成長しなくてはならないと、それが政治家の共通する考えであると。になってしまったような感があり、それ故に間違いも起きる。もう時代を超えるような正義、正しさによって生きる信念のようなものは限りなく無くなって来ている。先週土曜日、NHKでコヘレトについての番組があり、視聴した。コヘレトは言う、すべては「空」だと。なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが全ての労苦も何になろう。時は流れめぐり行く、その前に人間の労苦など何になると。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。…うんぬんと。現代人はその虚しさの中を飛び回って虚しさを忘れようとしているようにさえ思える。何をしても人の一生はわずか、瞬きをする間のようなもの、敦盛も言う「下天は夢か」と。

このような中、どうすればしっかりとした土台の上に立った人生を送れるのだろうか?例えば一つの基準を考える。その基準とは「信念のある人生とない人生」という区別。前述の菜々は信念に従って生きた。情報の蓄積である自我と今の情報に振り回されて生きる人。と言う区別である。一方はしっかりと大地に根を張っており、一方は浮き草のようにふらふらしている。その信念はまた、信仰といっても良いかも知れない。聖書の中で言われています。「わたしの正しい者は、信仰によって生きる。」と。「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」ヘブル10:39 。苦しみにも責めにも負けず信仰を貫いた人が神に喜ばれる人だと。それ故に「菜々」は信念を貫き祝福をいただいたと言うことになる。

その信念は時代を超えて正しいものであり、時代を超え人に共感を与えられるものでなくてはならない。そこに自分の力で、学びで辿り着かなければならないとすればこれもまたなかなか難しいことである。そこでその一つに宗教がある。仏教でもキリスト教でも数千年を生き、何億という人に受け入れられて来たもの、そこにもう一度目を向けてみるのはどうであろう?(取り敢えず新興宗教は置いておいて…)私は、あるいはあなたは「信仰によって生きますか?」それとも「今のままその延長で生きますか?」まあ、どうでも良いと言いますかね?。でも、わたしの正しい者は信仰によって生きます。

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