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2020年3月29日 (日)

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや:親鸞

雪が降って15cmくらい積もりました。寒いし外の仕事は出来ないので読書、「歎異抄をひらく」を読みました。今、結構売れている本のようですが。阿弥陀様を信じて南無阿弥陀仏と唱えるとありました。南無とは自分を捨て、信じて、全てをお任せして、委ね切ると言うことかと。誰にと言えば阿弥陀様に。人間は煩悩の塊で自分の力で救いには至れないと知り(自力を捨て)阿弥陀様に頼り切ってゆく(他力)と言うことでしょうか。

有名な「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」も、昔読んだが今ひとつ理解できないでいました。ここでの思い違いは、善人と読んで、私はまあこの部類だと思い、悪人と読んで犯罪を犯したような悪人と思っていたことでした。然るに親鸞は9歳で比叡山に登り29歳まで修行一筋の人、その親鸞が、自分はどうやっても、どんなに修行しても、罪(煩悩)から逃れ救われることはないと諦めて比叡山を降りたとか。そのレベルでは人は皆悪人であり、キリスト教的に言えば罪人である。義人、1人だになし。と言われる。それなら私も勿論悪人であった。 そしてここで言う善人とは自分の力で往生を遂げられると思う人の事であり、しかしそれは結局無理なことであり、そのような人でも自力での救いを諦めて阿弥陀様のもとに来れば救われると。従って善人でも救われる。まして悪人は自分の弱さ、無力さを嫌と言うほど知っている輩に付き一にも二にも阿弥陀様を頼って行く、それ故に善人よりなお救いに近いと言うことでしょうか。そして何より重要なことは阿弥陀様の本願を信じ切る、と言うことでしょうか。キリスト教と考えが割と似ており人間の本質を見る目もよく似ていると思いました。浄土真宗では「南無阿弥陀仏」でありキリスト教では「南無キリスト」とでも言うところかなと思いました。キリスト教でも、自分の十字架を背負って(自分の思いを捨てて)わたしに(キリスト)従え、と言い、わたしに従って命を得よ、と言われます。

雪の日の静けさも良いものです。お陰さまで勉強させてもらえました。皆様もお時間があれば歎異抄をひらく、聖書、読んでみてください。これはPRではありません。為念。

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